見出し画像

逡巡

久々にnoteのアプリを開いた。というかなんだこれ、今は生成AIに文章の推敲まで任せる事が出来るんですか。凄すぎんでしょ。コロナ以後、文明の発展ペースがより著しくなってるなあ、と強く感じる。

さあ、社会人になって2年目に突入した。相変わらず辛い事や失敗だらけの日々は続く。それでも現職場がかなり挑戦的な風土である事も影響し、僕自身も「変容の激しい世の中で、自律的に生き抜く為に必要な資質とは?」という問いを持ち、教育実践を重ねている最中である。

そんな道を突き進む中、同僚にも学生時代の友達にも、こんな言葉を頂くようになった。

「君の考えている事は面白いから、実践や理論を記録してみれば?」

ああ、自分で書いてて恥ずかしくなる。太字でハイライトになんかしちゃってさ。しかし、非常に嬉しくも思う。僕が教員として子どもと積み重ねてきた学びのやり取りを、「面白い」と興味を持ってくれる人がいたということに。そういう人の思いに触れる度、それなりに”マジで”仕事をする事の喜びを噛み締めるのだ。

今までSNSで教育的な私観を呟いていたりしていた。しかしXにしろインスタにしろ、長文テキストとのミスマッチ感は拭えない。というかそもそも、Xではくだらない事を、インスタには洒落たコーヒーの写真とか載せたいし。みんな教育の話なんて聞きたかないし。そこでnoteを使って、自分の思索や実践の記録を残していこうと思ったのだ。

しかし僕は何度でも言う。辛い事や失敗だらけの日々である。僕はまだ何も成し遂げていない。

今年はもうこれでもかと言うくらい悩んだ。子どもに対する声掛け1つとっても、「ああ、あの言葉選びだとあの子に伝わらなかったかもなあ」「僕が〇〇と言った時、あの子の顔曇ってたなあ」とか、頭がはち切れるくらい反省がフルスピードで巡る。帰りの電車とかで。勿論授業実践も、始める前はドキドキ、終わった後はモヤモヤ、が通例だ。

でも、そんな時に僕は自分に言い聞かせる。葛藤の無い日々を重ねた所で、面白くも無いし成長も無いじゃんね、って。「本当にこれでいいのかな、よかったのかな」という迷いが無い教育、無機質過ぎてなんか嫌じゃないですか。教育は人との関わりが軸にある営みだから、怒りも憂いも、そして逡巡も引き受けて当然だと僕は思う。逡巡無き教育に深みは出ない。

という事で、これから僕は「逡巡だらけの教育実践」を記録していきます。読む人は本当に限られると思うけど。忙しいので更新頻度は遅めです。ゆる〜くやっていくから、たまに覗いてみてください。文章を書いていて分かったけど、ちょっと悩み過ぎてたかも。週末はライブハウスにでも行こ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?