志らく一門会(第226回) 『志らく・志ら玉親子会 ~冬の夜噺~』

根多出し(芝浜)だった事もあり、前売りは売り切れ御免。
全席自由の早いもの勝ちなので、晩飯はとりあへず抜いて、押っ取り刀で日本橋亭。
足の悪い方の為か、最後方に二列の椅子席。 あとは全部畳敷いて桟敷。 座布団がズラリ並ぶ。

ここまで「詰め込む意欲」の見えた日本橋亭は初めて。
壁際とか(寄り掛かれる)楽そうなところはあらかた埋まっており、肚ぁ括って前の方へ。
どうせ辛いなら見やすい方が良い。

「恋根問」志ら松
「四段目」志ら玉
(中入り)
「芝浜」志らく

「恋根問」
ちょっと早口かなとは思ったが、口調もよく、客がウケるのを待たないのが良い。 噺の力を信じた演り方。
先代の円歌とか柳好の「歌うが如く」という奴だな・・・と思ってみていると歌が入る。
二つ目への課題のクリアの為の歌ではなく、芸の一環として消化できている。
前座のままだと何が有るか分からないので、なんとか二つ目になって欲しい。
(前座だといつ何処に出るかも分からないので、目当てで見に行けない)
この線で「稽古屋」「包丁」etc...、夢は拡がる。

「四段目」
任に合っていた。
芝居噺は芝居が分かっている人、見巧者が演ると違和感なく見られる。 落語としての誇張が入りつつ、形が良い。 忠臣蔵絡みの演目でもあり、季節感もある。
小僧に可愛気が有る。 ませすぎて鼻持ちならなく成ってしまうとダレるのだけれど、芝居への傾倒が常軌を逸しており、そこが愛らしい。
自覚のない異常者への肯定的な眼差しは、私淑する正岡容の影響だろうか。
師匠との会でも、客入れにはアイドル楽曲(今回はkolme)。 筋は通す。

「芝浜」
理詰めで矛盾を無くす構成の妙と、それでも残る矛盾を「魔法(イリュージョン)」で違和感なく肚に落とす演出の妙。
「うーむ」と笑えなく成ってしまうところを鸚鵡返しなどのベタなやり取りでほぐす。 そして仕草や表情に「談志」が顔を出す、嫌味無く。
談志の嫌なトコだけ似るってのは、直弟子の高座でよくある(醒める)のだけれど、ふとした仕草のなかで「生きている」。 「降りてくる」ってのはウソでも誇張でもなかった。

眠いのを布団引っ剥がされて商いに出る冬の朝、表に出てガタガタッと震える所作。
大入りの人いきれで暑いんだが、こっちもブルブルッと震えが来る。
こう言うのも、なかなか無い。 あれだけでも見に行った甲斐はあった。

大入りでも120人。 これくらいの箱が良いと志らく師も言っていたが、私もそう思う。
どっとウケたところで笑ってない私と志らく師の目が合う(ような気がする。二列目なので。)
笑っていないからと言って詰まらない訳では勿論無く、情報の処理が追いつかなくて表情に出ないだけで、内心ではワクワクしている。
「こいつを笑わせてやろう」とかそう言う変なことにはならず、「こう言う客もいる」というのは了解されていてそのまま進む。 ほっといてくれる、これも良い。

ダレ場は無いが頑張りすぎない。 トリ根多までの全体の構成も良かった。
ホール落語などで嫌なのは、しゃかりきに成って大根多かけたり、トリの前に笑い草臥れた状態にしたりするのが多いこと。「程が良い」ってのも、なかなか難しい。

寄席演芸と言うものが「単に笑いに来る人」を主たる客層にしている、それで廻っているから成り立っている事は承知した上で、「こじらせた人」として隙間に入って楽しめる、良い時間を過ごせた会だった。
鮨詰めで客が捌けるのに時間は掛かっていたが、余韻に浸るひとも多く見られた。
知己の発した
「良い時間でしたね」
この一と言。 正鵠を得ていた。

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