枝野堂摺連活動を終えて

撮れそうなところを中心に、時に掛け持ちする現場を廻して枝野幸男の演説を追ってみた。私がやってきたのは観察であり、選挙運動ではないのだけれど、公選法に抵触する恐れ無きにしも非ずなので、投票が締め切られてから総括。以下、些か散文的ではあるが雑感など。

街頭演説は2種類に分けられる。
「政党として組んだ祭り」と「個人の演説とその応援」である。

私が主に見に行ったのは後者。
党として組んだものは「絵作り」がされていて、弁士個人がそこに組み込まれる。 彩りを添えるゲストも呼ばれる。
見に行く聞きに行くのではなく、参加する客が多いのでガヤが五月蠅い(そして詰まらないと来ている)
特に左翼のガヤはウィットもエスプリも粋も美学も無い。こんなものは犬にでも食わせればいい。

閑話休題。
候補者個人の街頭演説は、動員が掛かったとしても聴衆の総数に較べれば少ない。
なので演説そのものに触れられる。 鳴り物や道具や仕掛けの入る芝居噺や怪談より、素噺が私は聴きたい。
企画物のホール落語より、独演会的なもの。これが娯楽として割と面白く、私の趣味嗜好に合うことに気付いた。

枝野は「野党共闘」との向き合い方が上手かった。
思えば新橋の市民連合の街宣。 志位・吉田が並んで立ったのに対し、彼らが引っ込んでからやってきたのが象徴的。
共存はするが共闘と言う名の抱き込みと共倒れは避ける。
野党共闘路線が政権に明確に敵対する勢力から打ち出されており、政権に対して親和的あるいは日和見的な人々には受け入れられにくい事を理解していればこその戦略。

枝野の言う「永田町の常識」の指す物は、政権与党の数を恃んだやり方だけでなく、二項対立に単純化しようとする二大政党論者や政権を絶対悪に見立てる善悪二元論者の考え方を含んだ旧来の考え方全般を含んでおり、それに捉われない考え方・戦い方が、選挙戦を通じて訴えられた「右でも左でもない、下からの、ボトムアップの民主主義」であったように思う。
だから批判よりも理想を語ることに時間を割いた。

しかし乍ら、野党共闘路線との向き合い方、永田町の常識の捉え方は党として整えている時間が無かったのか整える気が無かったのか、公認候補の中でも解釈に差が有った。
選挙区の情勢や支援する組織との折り合いの付け方など、難しい面もあったように思うが、それにしても枝野の演説とは乖離したことを平然と語る候補者には呆れた。

「とことん話し合って、最後は多数決」と言うのを(「急いで判断しなければならない時もあるが」と、枝野はエクスキューズを付ける事を忘れないのでズルい。) 、私は経験則からまったく信用していないが、議会運営にあたってのポーズとしてのそれは必要だと思っている。
枝野の言っているのは実際のところ「ポーズとしてのそれ」だと思うが、与党も野党もその気がないので、枝野の責任ではなく、「とことん話し合う政治」は恐らく実現しない。
しかし「そうあるべき」と言い切っておいたことは、そうならなかった時に効いてくるであろう。

演説の上手さと言う糖衣に包まれているので分かり難いが、理想を理想として語りつつも白紙委任の件など、口に苦く耳に逆らう内容も織り込まれている。
有権者にも釘を刺した形だが、相手は糠床であった。

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