写真展 「Ethreal Echo」

ギャラリーニエプスにて、Ethreal Echo を観覧。

案内看板と階段にライトを置いたのは良かった。
路地を入った所に入り口があるので、夜になると写真展をやっている事に気付いてもらえないし、だいたい誰かしら階段で蹴躓いている。
良かったのは、それだけ。

ステートメント:
変化する表情、静かでうるさい、孤独と連鎖。作家2人の思考が交差する。ひとりの少女を追ってフィルムで展開するストーリーと、異なる背景の人物のポートレートと静物で空間を表現する物語。2人の思考を合わせたときどのような物語が生まれるのか、実験的な2人展。

郷原麻衣の写真には引き込まれるような構図や配置の妙であったり、焼き込むことに依って強調される主題であったり、何度も見返したくなる面白さがあったが、Saz の方は営業写真館の店頭見本や、ヘアサロンのカット見本みたいなもので、さてはてねえ、どうしたものかと言う感じ。
ピントや露出に狂いはなく、構図もきっちり切られているが、それだけ。
営業写真館で顧客から求められる「こんな写真」と言うリクエストには応える技倆はあるが、それだけ。
定規で真っ直ぐな線は引けるが、フリーハンドで自分の線は引けない。
工芸としてはよく出来ているが、美術としては落第。

顧客から求められた場合どうするかについての解は示されるが、Saz 個人として何を撮りたいのかと言うのがまるで見えて来ない。 撮った写真から何かを汲み取って欲しい意思は感じられず、がらんどう。
模範解答が導き出せる自分を褒めて欲しいのかも知れないが、技術以外には褒める所が無い。
ピントと露出をカメラが決めてくれているとしたら、「間の良い構図」が唯一の美点として残るが、それも私の感覚では「陳腐」以外の何物でもない。

ステートメントも看板倒れで、 二人の作家の思考は交差せず、物語も生まれない。

・物語性を帯びた郷原麻衣の写真に引き込まれる
・連作の続きが気になる
・脈絡もなく挟み込まれる Saz の写真で流れが断ち切られる

この繰り返し。
擦れ違いの悲劇、不条理劇を物語と呼べないことはないが、相乗効果はおろか複合汚染も起きず、片方の写真は物語を断ち切るだけ。

そして、全体的に展示が汚ない。
額装したくないという気分は分かる。
剥き出しのプリントを黒枠のフレームのみで囲い、壁に直貼りする。
これが暖房による湿度変化で盛大に反る。
ギャラリーの其処彼処でグニャグニャに成ってしまっているのに、気にも留めない無神経さ。
額に入れなくても、スチロール板に貼ったり、反らないフレームを使ったり、展示方法は幾らも有るのに工夫をしない。

見せたい形で見せるためなら、暖房なんざ止めてしまっても良いのだ。
しかし、どう見せるかより、見に来る客の(そして在廊する自分の)快適さを採る。
本末転倒ではないか。 何がしたかったのか。

水平も垂直も、微妙に狂っている。 敢えてそうしているのではなく、揃えようとして揃え切ることを放棄しているから狂いが目に付く。

並べただけで終わってしまっていて、人にどう見てもらうかについては、動線と滞留についても無頓着。
写真の前で客と話し込んで気にも留めない。
展示スペースの中央に椅子を並べ、そこに感想ノートを置いていたが、このやり方では、余程感激した人か、余程頭に来た人か、知り合いしか書かない。
この「多すぎる椅子」も、観覧と回遊の妨げになっていた。

ナルチシズムの発露としての写真展を全否定はしない。
それを好む顧客も居るであろう。
ただそれは、それを是とするギャラリーでやっていただきたい。
何をどう撮って、どう見せるかで勝負するギャラリーでやることではないし、そこに持ち込んだ以上、酷評は免れ得ない。

30.12.16 再訪

窓にもポスターを貼って、遠目からでもそれと分かるようにはしており、人に見てもらうことに全く無頓着ではなく、気がついたこと思いついたことはやっているようだった。
看板や階段のライトなどの工夫なども含め、見に来てもらうための心配りが或る程度は出来ていた訳で、展示方法や場内の動線については、俯瞰して客観的にみられる状態ではなかったと言うことなのだと思う。

フレームの浮きや歪みは修正してあったが、改善への熱意の濃淡は矢張り見られて、そこも含めて表現者としての差が現れてしまっていた。
可能な限り修整するか、修整するポーズでお茶を濁すか。
「フレームの歪みまで含めて、計算された私の展示方法だ。」と言う事であれば、それで通せば良いのであって、修正するポーズでお茶を濁すなら、寧ろやらない方が良い。

写真そのもの以外の部分で引っ掛かって写真が見辛い。
それさえ無ければ、内容として半分は評価できる写真展だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?