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「人事ごった煮超交流会2020 in宮古島」に参加して

今年も宮古島に行ってきた。2年連続3回目。昨年は2泊3日、今年は3泊4日。昨年帰りながら「また来れるよう頑張ろう」と感じつつ、今年の企画の知らせが流れてから楽しみにしていました。とはいえ、楽しみにすること自体が憚れる時世でもあり、事前も旅行中も感染防止策を十分にとった上で臨みました。

今回の旅行は昨年に引き続き、「人事ごった煮会」というコミュニティの交流会からの参加です。7年前に沖縄本島で初めて体験したダイビングに味を占めて、初離島で訪れた宮古島にまさか2年連続で来ることになるとは思いませんでした。
昨年は到着後にダイビング2本してグランピングリゾートのRuguに1泊して、翌日は大勢の皆さんと一つ屋根の下でコンテンツを楽しみつつ語らったわけですが、ごった煮の楽しい皆さん・宮古島そのものの魅力はもちろん、宮古に住まう・働く人の話を聴けたことが旅行体験そのものの解像度を上げたことに大きく寄与しました。
インターネットを駆使して、島や暮らしを知ることはできても、その場所にいる人の唯一無二のリアルなストーリーを感じる体験は普段の旅行ではまずないため、特に印象深かったんだなと今でも思います。
昨年より1日延泊したことで時間があったこともあり、4日間を振り返りながら帰りの飛行機の上で書き残してみます。

「体験を通じて何を知覚するか」の大切さ

今回の旅行は那覇経由で宮古入りし、最初にMaipama Escasaに集合。知っている人、知らない人が混ざった中に入るドキドキを感じつつ、 nulabさんの「リゾートワーク」の取り組みを聴きました。
北海道東川町、宮古島でのリゾートワークをマネジメント研修の文脈で制度として運用されている話を聴いて、体験デザインの丁寧さを感じるとともに、私自身が今年始めにALIVEという団体のプログラムに参加して群馬県みなかみ町に出向くことがあり、学びの体験としての価値を感じたところでありました。外から批評することは簡単ですが、"現地で現地の人と現地の課題に一緒に向き合う"体験は非日常であり、人事という非現場にいる身としては究極の越境体験でした。自身の体験と照らし合わせながら改めて、"体験による学びの価値"を反芻する時間となりました。(3日目夜に別の方との話で「鳥取県智頭町での研修が前職で一番良かった研修」という話を聴いて、その土地が持つ力はもちろんですが、普段東京にいる我々にとって削ぎ落してしまっているナニカを体験できる価値があるんだろうなと思いました)

その後はRuguに移動し、昨年も味わった極上のBBQ。昨年はRuguを運営する安部さん始め、数人の方と手の届く空間で初めましての時間を過ごしましたが、今年は人数が多く、20数人でテーブルを囲みました。
今の時勢においてこの体験そのものが味わいにくくなっているため、それだけでもドキドキしつつ、「わわわ、どうしよう」というなんとも言えないそわそわ感を感じていました。
昨年は安部さんからの一つひとつ語りも含めた料理提供を受けたことを思い出しながら、一品目のピーマンでの滴る水分を味わい、「そうそう、この味。BBQ検定取得はダテじゃないし、焼き方でこんな違うんだよな」と記憶が蘇りました。

自己紹介タイムでは自分が後半だったこともあり、ドキドキしつつあまり何を喋ったか覚えておらず、今振り返っても「自分のタグ付け下手やな」と自己開示下手っぷりを自覚。その後のミライフ佐藤雄介さんのワークショップでは、自分自身の「想定・最悪・理想」の未来を内省し、グループで対話をしました。私はプライベートでNPO法人青春基地のプロボノをしており、そのNPOでは「生まれ育った環境をこえて一人ひとりが想定外の未来を作る」をビジョンに活動しています。2年半ほど関わっていることもあり、このワーク中に内省しながら感じたことは、「想定内・そのまま」を考えることの難しさとむず痒さを感じました。仕事柄もそうですが、いかに今を起点に想定外を作れるかを思考していることもあり、自分自身の想定内を考えることを無意識的にしてこなかったんだなと感じました。さらには、最悪・理想についても覚悟を持って前進することと「足るを知る」「これでいいのだ」のバランスを語りながら改めて自覚しました。他の方の話を聴く中でも、「宮古島を世界遺産にしたい!」という夢を現地から参加のある方が話されていたりと、たった10分の内省でいろんなシナリオがその人の中でメイクされていることがわかりました。

その後のナイトジャングルツアーにおいても、北海道出身のガイドのおかげで、舗装された道でありながらも踏み進める土を感じ、あかりを消してヤシガニが歩く音に耳を澄ませ、観察する・探検する楽しさを改めて感じました。宮古島の珊瑚が隆起した地層の特殊性や説明いただく生物のほとどが絶滅危惧種であり固有種であること、乱獲のために保護対象になっていること。自然を観察するだけでなく、確かなストーリーがあることで観察した自然の解像度が格段に上がったのを感じました。
宮古島に山がない、山がないから川がない、川がないから水がきれい、綺麗だからこその生態系、そんな自然を開発し集まる人々...

初日を通して感じたのは、宮古に暮らす人々にとっも、そして、自分自身にとっても、過去があり今があり、昨年があり今年があり、日常(乱獲して生活費を稼ぐなど)があり非日常があることです。これらは体験だけではなく、ストーリーとともに味わうことで、自分が何を感じ、それをどう知覚し、どう記憶に残るかが変わるんだなということを思い知らされました。これまでの旅行体験でも非日常体験をしたことはあっても、宮古での体験は濃度・密度・解像度が違うことを改めて感じました。(旅行先で観光しかしていないというのはありますが・・・)
昨年のシュウヒコさん、はるかさんの話も印象的で、宮古だけを知っているのではなく、中からも外からも語れる人が語る"語り"だからこそ、噛み締めやすいストーリーとしてすっと自分の中に流れているんだなと、繋がりを感じました。

これらストーリーに触れる手段は現代では色々あります。書籍、ネット記事、SNSなどなど。ただ、改めて思うのは、こうした編集が加えられた二次情報ではなく、直接当事者との対話を通じてそのストーリーに触れることのインパクトの大きさは改めて大きいんだなということです。そして、その当事者も宮古島一筋の人から、出戻り、移住者など多様な方が語ることで、語り口が多様になり、伝わり手がそれぞれのピースを繋ぐ楽しさを味わうことができるのではないかと感じました。
そして、まさにこのことこそが自分自身が関係人口の一人として宮古に魅せられた要因の一つであり、関係人口を増やしていく一つの切り口なんだろうなと思いました。(強烈な当事者Aさん一人のストーリーに心を動かされることを否定するものではありませんが、時に強烈すぎるがゆえに共感することの怖さすらあるケースもあるのではないかと感じています)

想定外を楽しむ

怒涛のような初日を終えて2日目を迎えて、7:00からビーチクリーンへ、参加者全員でのチェックアウトを終えて、各自の車で散り散りに・・・
と、2日目に向けて動き出すはずでしたが、まさかの車のバッテリーが上がっており、立ち往生。バッテリーケーブルをスタッフの方が持ってくるものの、車の場所が悪く、届かない。車はパーキングにギアが入っているので、うんともすんとも動かない・・・
ケーブル含めた備品を購入し、復旧するには最短で2時間はかかる予想。。。直後の会話では「え、なんでバッテリー上がったん?」「昨日のガイドじゃね?」「ドアあけっぱだから?」とヒトの性か、原因を探す会話をしたものの、特定の誰かがいるはずもなく、また、その原因がわかったところで現状の打破につながるものではないため、おとなしく待つ必要がある状況。空を見渡せば前日の曇り模様が嘘のような快晴であり、絶好の行楽日和。他の車の皆さんは一足先に青空パーラーでスムージーを楽しんでいるところ、対して我々7人は完全に足止めを食らう・・・と完全に想定外。
旅行というものは時間に限りがあるわけで、大人数で集まっているとはいえ、予定が狂わされることに不快感を覚えることは一定理解できます。
天気の良いリゾート地・宮古島にて屋内にいなければならない状況・環境・・・ここまでくると現状に悲観したくなるものです。が、個人的に面白かったのは、残っていた皆さん全員が予定が特段ないこともあり、全員穏やかで焦りがなかったこと(もしかしたら、それぞれの焦り・いらだちは一定はあったかとは思いますが)。たまたまビールが余っていたこともありテンションを落とさず、朝10:00から乾杯。あの不思議なテンションは、あの場にいた皆さんの明るさか、宮古の空気がそうさせたのかはわかりませんが、誰かのせいにできないこともあり、トラブル自体に対してできることが少ないこともあり、これはこれで楽しい非日常を味わうことができました。想定外を作りだすことを普段から意識していたりはしますが、ここまでの想定外はなかなかありません。あったとしても特定の誰かの仕業であることが多く、ここまで神の見えざる手が動いたような案件はなかなかありません。
私が好きなニーバーの祈りの言葉「神よ、変えることのできるものについて、 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 変えることのできないものについては、 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ」の通り、関心の輪ではなく影響の輪に意識を向けることで、時間的・空間的非日常体験を楽しむことができるもんだなと、自分自身の"想定外楽しむ力"を自覚した体験でした。ちなみに、その後は、電源から救急できる機械をスタッフの方が購入し、ギアチェンジできるだけの電気をバッテリーに供給し、男4人で車を動かし、他の車とバッテリーケーブルでつないで、ようやくエンジンがかかりました。10時に出発予定が結局出たのは13時。出た瞬間、景色が良すぎたのもあり、「あ、写真撮る!?」と「今までの時間!!」という鋭い突っ込みがありながらも、素敵な写真が撮れたのは良い思い出です。

出してみることでわかるジブン

2日目夜、3日目夜は少人数でお話しする機会が多く、自分が喋らなければならない状況であったこともあり、色々なことを話すことができた楽しい時間でした。一方で、初日夜にあまりお話ができなかった方も多く、改めて、自分自身の陰キャぶり・コミュ障ぶりを自覚し「あぁ、もっと話せばよかった」と思うと同時に、なぜ自分がこうなるかと深掘りすると、自分が喋り始める・問いを投げることより前に"場の観察"をしてしまうからなのかもと思いました。(ストレングスファインダーで「分析思考」が強みですが)
場の観察とは、この場にいる人はどんな人か、今はどんな場か、場にいる人の体温や熱量、互いの関係性の深さ、どの人がどこにいるのか、これから起こることやそれによる変化はなどなど。大勢いればいるほど、その場に没頭するというよりも自分自身を客体化してしまい、話せなくなるという・・・
また、自分は相手への関心はあっても、関心のぶつけ方を逡巡してしまい、戸惑うことがあるなと。ここも「関心を持つこと」と「その関心をぶつけること・場に出すこと」の間に改めて隔たりがあることを感じました。
さらにいえば、これらは共感志向・共感力の罠だろうなと。自分が話したこと・関心を向けたことに対して、相手がどう反応するか・場をどう変化するかを過度に感受しようと知覚を研ぎ澄ますことは極論、疲れます。にもかかわらず、相手の反応ですら関心の対象に含まれているが故に、「相手がどう反応するかは相手の課題」というアドラーいわく"課題の分離"ができないことがあるんだなと。冷静になれば、周りにアンテナを張りすぎるのではなく、半径1mに集中して会話そのものを楽しめばよいはずです。相手が受け取らないことを怖がらない、むしろ楽しむ姿勢が大事なのにもかかわらず。

御多分にもれず、コミュ障とは多くの社会課題と同様に個人に障害があるのではなく、システムの方に障害があり、多くの場合、マジョリティに最適化されているんだろうなと思います。それが良い悪いというよりは、そういうものであるため、そこへの向き合い方を身に着けることが一定程度は必要だと思います。自分自身を振り返ってみても、若い時のコミュニティ内でのコミュニケーション経験によって形成されたものが大きいわけですが、可能な範囲で自分を矯正しつつ、システムそのものを問えるようになりたいなと感じました。

そして、これらをひっくるめて初日から3日目までを通じて感じたのは、「自分自身の体験も誰かに刺激を与えるタネを持っているんだな」とポジティブに感じれたことです。純粋に自分自身・自分自身の話に耳を傾けてもらえること、関心を向けられることはそれ自体が新鮮かつ心地良いものです。話をしてみる・出してみた上で、相手が"受信している"ことを感じる。この単純なコミュニケーション自体が心地良い。「オンラインコミュニケーションでやりづらいのはかぶせだよね」というやりとりが滞在中もありましたが、まさに在宅勤務が続く中で改めて飢えていることに気付きました。
その上で、自分自身も含めて、私はポテンシャルフェチであり、人の可能性がスパークする瞬間を直面するのは鳥肌が立つほど刺激的であり、探究しがいがある人間の奥深さを感じ続けたいんだなと思いました。裏を返せば、自分自身がある人との会話で口にした「人をあきらめている人が嫌い」というワードは、自分で発して「うん、嫌い」と思えた信念でした。
加えて、「"できる人"を集めて最大限のパフォーマンスを発揮させる」ことよりも「どんな人でも、なりたい自分を描いてみる環境を作る」ことへの関心が高く、その手段としての人材開発・組織開発の軸を磨いていたいし、その上で、社会としての包摂を考えられるようになりたいなと、初日夜のワークショップでも感じました。

あと、これもある方との会話で"リフレクションとは"の文脈で、ジョン・デューイの「その人の信念の根拠を評価すること」という言葉を私が挙げました。これは"自分が何を信じようとしたのか・何を信じることができたのかを確認するプロセスである"と捉え直すことで、反省よりもより"リフレクション"が持つニュアンスを表していると感じています。(どっかで見かけましたが、どこだったか忘れました)
改めて、「自分自身の信念を大事にできているか」「その信念そのものすらフィット感があるか」を定期的に評価したいなと感じました。

3日目の日中は一人でダイビングを満喫。下地島空港の裏側の湾のあたりを地形巡り。あいにくの風の強さ・流れの強さで1ダイブ目で海の中で酔うという事態に見舞われましたが、宮古の海の中で文字通り"呼吸に全集中"したことで、命を使っている感覚を味わいつつ、「あぁ、この冒険感、ポケモン探索感が堪らない」と浸ることができました。(ガイドの人と初めてのマンツー。少人数制でしか運営していない模様で、こんなところにもコロナの影が)

2年連続で宮古島に来てみて、改めて感受性を解き放ち、宮古という空間に浸ることで、自分自身が研ぎ澄まされる感覚を味わえたことは「おれ、まだ未開発のポテンシャルあんじゃん」と思えた4日間でした。
今年は「らしさとご自愛」を年始に1年のテーマとして掲げ、参加した研修体験で「浸る」「体験ドリブン」というワードを吸収し、『問いのデザイン(安斎勇樹)』という関心事ど真ん中の書籍に出会い、この書籍との出会いをきっかけにWDA(現・CULTIBASE Lab)に入会し、直近の公立高校でのクリエイティブWSのお手伝いなどの機会もあり、内省する時間はたくさんありました。
それでも、旅行先で「なにかをしなければならない」プレッシャーから解き放たれたことで、見つめられた自分がたくさんあったなと振り返ります。

宮古は特別な場所であることは間違いないですが、その特別性を特別視しすぎず、日常に溶かしていくことに努めつつ、その上で宮古の特別さをまた味わえるよう日常を豊かに頑張りたいと思います。

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