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境界

 思えば今はいろいろな面で境界にいるのだろうな。それは給与天引きで税金を払うか確定申告で税金を払うかの境目であり、自分の在り方を掘り下げる旅を続けるか現状維持のあらゆる施策のあれこれに定住するかの境目であり、端末で再生芸術を楽しむのか音を創り出し舞うのかの境目であり、それはエンターテインされる(誰かに都合の良いかもしれない)消費者で居るか自らの手で日々を編むことの素朴な娯楽をいちいち楽しむ所へ居るかの境目でもある。

 思えば自分は何か外からの要求やリズムに合わせることを第一と教えられ、それに可哀そうな位愚直に素直に生きてきた。素直さは自分の最大の弱さであり強味でもあろうことは、この歳にもなると自覚はしている。それにしても、つまりここで記しておきたいのは、そういう右へ振りきったような半生を歩んで来たが故に、ちょっと左へ振れるだけ振れる時期があっても良いのではないか、ということ。そうして左へ行く自分をいちいち、駄目だとかやり過ぎだとかできないとかいう目で見て、冷たい言葉を心の中で投げかけるようなことをしなくっても、良いのではないか、ということだ。そして、それはもうやり尽くした。良いではないか、ハード・タイム・イズ・オーバー。

 ここ数か月、旅といろんなことの移行期に伴って娘もフリースクール生活だったのが、先週から小学校というものに、再び行き始めた。そうしたらシステムのリズムが否応なく日々の暮らしに食い込んできて、ここ数か月築いてきたリズムとぶつかるような側面がたくさん出てきて、そういうものの摩擦にうーん…と唸ってしまうことばかりの、一週間だった。それを「システムに合わせられない駄目な自己」として捉えてしまうとそれは良い子ヘルメットがそれはそれは頑丈に構築されてしまっている私にとっては悶絶級の苦しみで(笑)、それを同じく急にはシステムに合わせられない娘の方への怒りに(一瞬で、無意識のうちに!)転嫁している自分が居て、それに気づいてまた悶えていた。大人、親というエゴは恐ろしい。

 この境界を、境界と知りながら、両岸をニュートラルな目で、眺めていたい。両方を良いでもなくわるいでもなく、淡々と。たとえいわゆる「適応」ができなくとも、適応すべきものが疑いようもない時代は、既に過ぎ去っていることを、「左側」へ揺れる感性は告げているのだから。


 

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