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30.303の多義性

「数字と一元性」

記:2020/10/17_伊豆半島某河川_33cm

数字というのは、ある事象を一元的に表すのが得意だ。
「一般道の制限速度は60km/h, 1日の勤務時間は8時間」
60や8といった数値が何かこれ以上の意味を含有しているのではないか。
そんなことを考えるのはごく少数であろう。
(もちろん、なぜ60km/h, 8時間なのかに意味はあると思うのだが。)

一方、以下の表現を目にしたとき、どのような感情を抱くだろうか。
「成人は18歳、定年は60歳」
もちろん、これはただの数字に過ぎない。
しかし、数字が表すものが、無機質なものから有機質なものへと変わってる
すると、どうだろうか。
「18歳の成人か、どんな人なんだろう、何か趣味とかあるのかな。」
「60歳の定年間近の人か、これまでにどんな苦労をしてきたんだろうか。」
どちらの数字も一元的な意味合いを示すのに使われていることには変わりがない。
しかし、その数字が意味する広がりや深さは違うのではないかと思う。

「30.303」

記:2020年10月17日_伊豆半島某河川_32cm

釣り人というものは、魚種に対しても同様に数値によるボーダーラインを定める。
鱸なら80cm、鰤や平政なら10kg、そんな具合だ。
80cmの鱸は80cmの鱸であり、10kgの鰤は10kgの鰤なのである。
その80cmの鱸がどんな魚なのか、どんな背景を持って育ってきたのか。
そこまで深く掘り下げて考える釣り人はごくわずかであろう。

鱒族というのは面白い。
なんたって定義された数値にそれ以上の意味や価値を見出せるからだ。
放流魚と天然魚の30.303、本流銀化と隔離水域の30.303。
日光と大和の30.303、縦長パーと丸型パーの30.303。
どれも30.303には変わりがない、種も同じ、単位も同じ。
だが、我々トラウティストは30.303を一元的なものとは捉えないはずだ。
ここに、我々が鱒族に取り憑かれるように惹かれる深みが存在するのではないか。
無機的、有機的のような0か100かの線引きができる世界観ではない。
淡いグレーのような、グラデーションの世界である。
しかし、鱒族は、グラデーションのなかでも極めて有機的に近いのではないか。
ここに鱒族ならではの、温かみや慈しみといった感情が存在するのではないか。
彼らに対して、ある種擬人的な親しみを覚えるのは不思議なことではないだろう。

「カタログスペック」

記:2020年10月17日_伊豆半島某河川_30.5cm

カタログスペックで物事を語る世界観は、終焉に近づいているのではなかろうか。
定量的な指標に基づき評価を下すのは容易いことである。
しかし、我々は一元的な指標だけでは測りきれない何かがあることを知っている。
トラウティストはなぜ最新鋭の道具を使わないのか。
トラウティストはなぜ自ら好んで不便を選ぶのか。
カタログスペックからの脱却にこそ価値を求める時代になるのではないだろうか。

人も魚も釣具も同じである。
自ら率先してカタログスペックの高さをアピールされると違和感を感じる。
もちろん、そこに価値がないわけではないことを理解はしている。
しかし、我々はロボットではない。
感性を司る生命体なのである。
単なる数値に一元的ではない、多義性を見出すこと。
そこに面白さを感じていくことこそが、楽しいのである。



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