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福田平八郎展

長蛇の列は…

大阪市立中之島美術館で開催中の「福田平八郎展」に行ってきました。
美術館の入口が遠くから見えるところまできたとき、長蛇の列!
「えっ?こんな並ぶの?」
確かに、コロナ禍のあと、しばらくは日時指定しなければならなかった美術展も、今回は指定なしになっており、そういう意味では人が多く集まれば入場規制されるわけです。

列のところまできてスタッフの方の看板に
「モネ展 最後尾」

モネ展もここでやってるのね(笑)。
「福田平八郎展」はすぐに入場することができました。

福田平八郎

1892年(明治25年) - 大分市に生まれる
1898年(明治31年) - 大分県師範学校附属小学校(現・大分大学教育学部附属小学校)に入学
1910年(明治43年) - 大分県立大分中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)に進学するが、数学が苦手で「数学のことを考えるだけで世の中が暗くなる気がして」中学校3年の進級に失敗、京都市立絵画専門学校別科に入学する
1911年(明治44年) - 隣接する京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学
1915年(大正4年)
3月 京都市立美術工芸学校卒業。卒業制作は同校の買い上げとなる
4月 京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学
1918年(大正7年) - 京都市立絵画専門学校卒業
1919年(大正8年) - 第一回帝展に「雪」が入選
1921年(大正10年) - 第三回帝展に出品した「鯉」が特選となり、宮内省(現・宮内庁)が買い上げる。
1922年(大正11年) - 谷口テイと結婚
1924年(大正13年) - 帝展の審査員になり、京都市立絵画専門学校助教授に就任
1932年(昭和7年) - 「漣」を発表。
1936年(昭和11年) - 京都市立絵画専門学校教授となる。
1937年(昭和12年) - この年から始まった新文展の審査員に就任[1]
1947年(昭和22年) - 帝国芸術院(同年末日本芸術院)会員。
1948年(昭和23年) - 毎日美術賞受賞。
1949年(昭和24年) - 日展運営会理事。
1958年(昭和33年) - 日展常務理事。
1961年(昭和36年) - 文化勲章受章、文化功労者
1969年(昭和44年) - 日展顧問。
1974年(昭和49年) - 逝去、叙従三位。墓所は京都市左京区の法然院で、隣には谷崎潤一郎夫妻が眠っている。

Wikipedia 抜粋

画家としてとても順風満帆な人生だったんだなと思いました。
1915年の美術学校の卒業制作は学校の買い上げ、1921年の帝展の作品は宮内庁の買い上げ。
日本画家として写実から琳派風な作品は美しく、確かに好き嫌いが発生しない作風な印象です。

「朝顔」

自然なもの~物体として存在しないものを描く

タイトル画像の「漣」(さざなみ)は1932年は40歳の作品。
日本画として「問題作」と言われたそうですが、これまでとは全く異なるように見えるけれど、写実を追求した先に彼に見えたものなのかとも思います。

このあと、どんどん彼の作品は自然の物体として存在しないものを描きます。

「水」


「氷」


「雲」

明治生まれの人とは思えない感性だと思いました。

作品は現代アートにも通じるけれど

最初、この展覧会のポスターを見たとき、現代のポスターか?と思ったら、明治生まれで「没後50年」とあり、しかも日本画。こんな人がいたなんてと驚きました。

でも、彼の略歴と作品を見ていくうちに、「戦争は?」という疑問が生じました。

昭和16年 5月第6回京都市展の審査員をつとめる。
5月大日本航空美術協会が結成されたが、その創立委員(美術家35名で構成)となる。しかし9月開催された同協会、朝日新聞社主催の航空美術展には出品しなかった。
10月開催の新文展の審査員をつとめる。
〔主な作品〕
3月第1回尚絅会展に「紅梅(写生)」を出品。
5月第6回京都市展に「紅梅」を出品。

昭和17年 5月第7回京都市展の審査員をつとめる。
7月満州国国展審査のため須田国太郎などと中国各地を訪れる。
10月第5回新文展の審査員をつとめる。
〔主な作品〕
3月日本画家報国会軍用機献納作品展に「白梅」を出品。
5月第7回京都市展に「花菖蒲」を出品。
11月第1回十宜会展に「花菖蒲」を出品

昭和18年 5月第8回京都市展の審査員をつとめる。
10月第6回新文展の審査員をつとめる。
〔主な作品〕
5月第8回京都市展に「柿紅葉」(後に「彩秋」と改題)を出品。
7月第3回尚絅会展に「鴛鴦」を出品。
9月関西邦画展に「山桜」を出品。

昭和19年 7月奉祝京都市展の審査員をつとめる。
〔主な作品〕
7月奉祝京都市展に「花菖蒲」を出品。
11月戦時特別文展に「若桜」を出品。

昭和20年 冬、桃山泰長老から転居。
春、海軍軍需美術研究所が開設され、指導主任となる。
9月京都市美術館の評議員となる。

昭和21年 5月第2回京展の審査員をつとめる。

「東京文化財研究所」アーカイヴデータ

戦争中の彼の足跡です。
昭和17年満州での美術展審査のために中国を訪れたことと、日本画家報国会軍用機献納作品展に「白梅」を出品。
昭和20年海軍軍需美術研究所の指導主任になったこと。

戦争中でもこれぐらいしか戦争関連の言葉はみつかりませんでした。
従軍画家や戦争画を描かされた多くの画家がいた時代、彼はどういう立場でいたのでしょうか。

1940年~1945年は、彼が48才~53才。
これだけ当時世間に認められていた日本画家が戦中にどんな気持ちでどんなことに携わったのか、多くの仲間が従軍画家になったり、批判して徴兵されたり、戦後は逆に戦争加担で批判される…
こうしたことにはならなかったのはなぜなのか?

展示を見た時の作品の素晴らしさとは逆の気持ちが、今、私の心に芽生えています。


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