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KIYA-HEN、いや、キヤさんと私。

2021年8月2日。札幌の音楽シーンで活躍するギタリスト、KIYA-HEN(きやへん)こと、木谷さんが闘病の末に逝ってしまった。今年一番の「なんでやねん!」だ。彼はオレの高校の先輩なんです。高校時代から「キヤさん」って呼んでいたので、世間では「KIYA-HEN」とか「きやへん」とか「きやっち」とか呼ばれていたようですが「キヤさん」と表記します。

■出会いは1982年、高校時代
出会いは1982年4月にオレが北海道立札幌工業高等学校電気科に入学してすぐだったと思う。音楽系の部活に入ろうと思ったんだけど、けいおん的な部がなかったので仕方なく「フォークソング部」に入ってみた。そこにロックで巨大(当時身長5m)な電気科3年生「キヤさん」がいた。キヤさんだけフォークソングのイメージのカケラもなかった。ギター弾きとして「なかなかやるじゃん」と思ってくれたのかどうかは知らないけれど、なぜか可愛がってもらってた。「ヤスヒト、今日はギター持って来てねーのか?」とよく言われた。「持ってるよ」と言ったら「よし、ギターバトルやろう!」ってのが定番。オレ、勝てるわけないじゃんよ。でも頑張って弾いたけどさ。

学年は違うが同じ工業高校の同じ電気科なのに、電気回路の事などまったく理解出来ないオレとは違ってキヤさんは、FM電波で飛ばすギターのワイヤレス送信機を自作していた。それだけじゃなく、6点式シンクロナイズドトレモロユニットを加工して2点支持ナイフエッジのトレモロユニットに改造したりしてた。

■80年代の札幌バンドシーンとロック喫茶『ぽっと』
1980年代当時の札幌はハードロックやヘヴィメタル全盛で、サーベルタイガーを頂点としてすごいバンドが沢山あった。キヤさんから、そういうバンドマンや関係者やファンたちが集まるロック喫茶『ぽっと』に連れて行ってもらって、自分でも出入りするようになった。北20条の学校から真駒内の家まで帰って着替えてすすきのの『ぽっと』まで地下鉄でよく移動してたな。
ロック喫茶だが、BGMはロック系のレコードばかりじゃなかったんだよね。当時はシンディーローパーのアルバム『She's So Unusual』がよくかかってたな。オレはそこで初めてChar「Smoky」や松岡直也「Sunspot Dance」や山下達郎「SPACY」「Sparkle」や角松敏生「After 5 Crash」を聴いて「かっちょいい!」と思ったんだよね。オレ自身はハードロックやヘビメタにあまり興味はなかった。山下達郎や角松敏生やサンタナやスティーブルカサーや高中正義が好きだった。
でも一度だけ湊さんがドラム時代のサーベルタイガーを観に行った事がある。会場も演奏もすごい熱気で圧倒された記憶がある。
忘れてたけど高校時代にラウドネスもVOWWOWも観に行ってるんだよな。
ヘビメタ興味ないけど、ラウドネスの1枚目のアルバムとBOWWOWがVOWWOWになってからの1枚目のアルバムは名盤だと思う。

■キヤさん高校卒業そして疎遠になる
そしてキヤさんは高校を卒業するんだけど、当時琴似にあった玉光堂で卒業ライブ的な企画があって、それを観に行った。キヤさんは女の人から「キヤくん、おっきぃ~♪」って言われてたのをなぜか覚えている(笑)。
で、その時の演奏で衝撃を受けたのが、確か関寺さんっていう高校の先輩がベースをやってたバンドが演奏した「ホテルカリフォルニア」と「ルーム335」。キヤさんはメンバーじゃないんだけどね(笑)。
なんか、すごくいいライブだった思い出がある。その日からオレに彼女が出来たから(笑)。1982年に発売されたロッテブルーベリーガムの味とともにその日を思い出すこともしばしば。ブルーベリーってなに?という時代だったんだよ。キヤさんありがとう。

■それから10数年後、偶然発見
キヤさんが高校を卒業してから、たしか1回だけ澄川あたりで会った記憶があるんだけど、その後は音信不通。どこで何をしてるやら不明になった。
1985年、オレも高校を出てソフトウェア開発会社でゲーム音楽を作るようになったり大阪の会社に移籍したりして、札幌に戻って来てソフトウェア開発会社を作ったのが1997年だからもう10年以上の月日が流れた。

そして21世紀になるかならないかの時。

インターネットが当たり前の時代になり、オレは会社でWebサイトをダラダラと見ていた。エレキギターの配線について検索して調べていて、とあるホームページにたどりついた。随分とギターに詳しい人だなぁと感心しながら読んでいて、文章の端々に「梅沢無線」や「狸小路」というワードが出て来て「あー、札幌の人なのかー」って思って。ただ言葉遣いが横柄というか(笑)、「それぐらいは自分でネットで調べろ」みたいな事が書いてあって、「札幌の?ギター弾き?どんなヤツが書いてんの?」とそのサイトのタイトルを見たら「KIYA-HEN」の文字。「え?なんて読むの?きや・・・へん?」で、その人の写真を見てびっくり。「キヤさんじゃん!!!!」。
その場でWebサイトからメールを送った。文面は全く思い出せないけど、「お久しぶりですヤスヒトです!」みたいな感じだったはずだ。

返事はすぐに返って来た。
「マジか!なつかしー!おまえ今もギター弾いてるか?ギター持って会いに来い!」みたいな感じだったと記憶している。「ギター持ってるか?ギターバトルしよう!」の高校時代と同じセリフだったのがうれしかった事だけ覚えている(笑)。

■再会
連絡が取れてからすぐに北34条あたりにあったライブハウスみたいな所で再会した。「キヤさんだー!」「ヤスヒトだー!」ってお互いに爆笑したはず(笑)。周囲の人々に「高校の後輩で10数年ぶりに会うんだよー!」って言ってた。一緒にギターを弾いたけど何を弾いたかは覚えていない。とにかく、それで連絡先を交換したりあれから何をやってたのか話したりして、またキヤさんとつながった。

■それからオレが札幌の音楽シーンに出るまで
それでも、オレ自身がバンド活動を全くやっていなかったので、PC関連の仕事のちょっとした相談みたいな連絡は取っていただけのような感じだった。
そう、オレは、バンドってどうやって組めばいいかわかんなかったし、ゲーム音楽を作る人になってからは演奏家じゃなくて作家でいいと思っていた時期があった。だが大阪から札幌に戻って来てからは、ストラトを買ったりしてまたプレイヤー欲が出て来てはいた。

オレはその後わりとすぐに、ひょんなことから千歳のカトマンズクラブをホームとして人前で演奏する機会が増え、マスターやお客さんに鍛えられて、山口こうじの紹介で、これまた札幌音楽シーンの重鎮であるシェッタガーリアのミミ山田さんの新昭和歌謡バンド「バーボンナイツ」に参加する事になり、何本かライブをこなすようになって少し人前で弾く自信が出てきたかも知れない感じになった。山口こうじのバンド「The Kojing Revue」のヘルプギタリストとしても弾いた。ものすごい速さでそちら経由でオレも札幌のバンドマンに知り合いが大勢出来た。
その頃、ライブハウスで偶然会ったキヤさんから「ヤスヒト、おまえミミさんと一緒になんかやってるんだって?いいなぁ。ミミさんはな・・・」とミミさんがどれだけ素晴らしいミュージシャンなのか、あの頃シェッタガーリアがどれだけ札幌のインディーズシーンで輝いていたかをオレに教えてくれたっけ。
その後、キヤさんはジプシーローズや郎平でミミさんと一緒にやる事になるんだけどね。

■キヤさんと共演
あれはなにがどうなってそうなったのか覚えていないんだけど、スローハンドでキヤさんと一緒にホテルカリフォルニアを演奏した記憶があるんだよな。キヤさんは自慢のギブソンダブルネックを持って来てて・・・あれ何だっけ?何のイベントだっけ?お互いに「改めてコピーしなおしたらギターソロ結構難しいな!」つって。

実は、考えてみたらキヤさんと一緒に演奏する機会はほとんどなかったな。
やっぱり同じ札幌の音楽シーンにいるんだけれど、活動するフィールドが違ったからね。だからお互いのライブも観てない。キヤさんのPhantom of Sorrowは観た事ないし、オレの7 COLOR SAUCEをキヤさんが観に来た事もない。ジャンルが違うので対バンにもなった事がない。
考えてみたら不思議な関係なのです。でもお互いミュージシャンとして認識しているというね。で、お互いに、白いIbanez RGとZOOMのG3でね。SNS上では「一緒だ!」とか言い合ってたけど。

KRAPS HALLの年末のカバー大会で急遽大人数で「Born to be wild やるぞ!」ってなってキヤさんと一緒にステージに上がった事もあった。はず。
あまりにも急遽過ぎてよくわかんないうちに終わったのです(笑)。

そう、8JOの「既存の曲はやらないぜ!」というキヤさん主催のフリーセッションに一回だけ行った事がある。
キヤさんと一緒にギターを弾いたのはその時が最後になってしまった。
その時はえーっと、キヤさんとオレとPhantomのドラムの人と上手なベースの人と・・・人の名前を覚えるのが苦手なもので申し訳ない。完全に即興バンドで曲も即興なんだけど、すごい楽しかった。
終わってからキヤさんとPhantomのドラム&ベース?と4人でびっくりドンキーに行ってご飯食べたな。

■キヤさんち
キヤさんの家にお邪魔したことが3回だけある。
1回目は高校生の時に篠路の家。
「一緒に曲作ろうぜ!」とか言って。
お互いに色々とペロペロ弾くが作曲の知識がなくてまとまらず(笑)。

2回目は川沿の家。
当時オレがやってたSOYSというユニットでライブで同期演奏に使うMacBookのOSを急遽入れ替えなくてはならない事態になり、キヤさんに電話して「助けてー」つったら「家来い」ってなって。助けてもらいましたありがとうございました。お礼というか差し入れの品が、キヤさんがほとんど食えないものばかりで申し訳なかったです(笑)。

3回目は菊水元町の最後の家。
オレのIbanez RGの配線を改造してもらう事になり、ギターを持って参上。
この家に引っ越してきたばかりだそうで「最初のゲストだな」なんて言ってた。

■その他、思い出に残ること
やっぱりiPhone 4sの発売日だなぁ。
発売日に入手出来る事になって、あさイチで家から一番近い川沿のソフトバンク川沿店に行くと、ソフトバンク側のサーバーがアクセス集中で使えない状態で待たされていた。そこにひょっこりキヤさんが現れたのです。
当時キヤさんは川沿に住んでいたから、キヤさんにとっても家から一番近いソフトバンクだったわけで、お互いに、「あれ?」「おや?」みたいな。
狭い店舗にイカツイおっさん二人。ソフトバンクのおねーさん二人(笑)。
数時間待って「腹減ったなぁ。」「ですなぁ。なんか買ってきますか?」みたいな話をした直後にようやく手続きが出来て、二人でマクドナルドに行って新しいiPhone 4sをいじり倒したのでした。

それと、小樽「あまとう」でケーキセットね。
それについては昔のブログ記事が残っていたので、非常にダラダラとした長文ですがそちらをどうぞ。
http://31103.ldblog.jp/archives/51821745.html

■最後に会ったのは・・・
写真の日付から、2019年8月4日だそうです。
キヤさんに改造してもらったIbanez RGを取りに行って、キヤさんもRGを持ち出して二人でスタジオカディスに行き試奏大会をやった。それが最後です。そのちょうど2年後に送り出す事になるとは・・・
オレのHELIX LTのプリセットを1個ずつすべて「おぉ、これはあの曲の音のつもりかー」つって弾きまくってました。楽しそうだった(笑)。


■最後の最後に
キヤさんは真面目でやさしい人でした。オレら後輩から「身長5m」とかいじられても笑って受け止めてくれていました。オレのギターを褒められた記憶は一度もありません(笑)。でも音楽を作る人間としては「あいつは一流だよ」って言ってくれていたと聞きます。オレもキヤさんについて語る時、言葉にした事もあれば心の中で言ってた事もあるけれど必ず最後に「ギターはすごいよ」って付けてました。マジで、目の前でキヤさんがギターを弾く度に、「エレキギターってそんな音出んの?!」って何回も言った事があります。

7月の初旬に、差し入れを持って行こうと思ってFBからメッセージを入れました。でも未読のまま。もしかしたら大変な事になっていたら迷惑だろうと思い、メッセージは未読のまま削除しました。差し入れは退院したら渡そうと思っていました。結局、その差し入れを渡す事は叶わないまま、キヤさんは逝ってしまいました。

キヤさん、これ・・・どうしよう。
プラモデル好きだっていうから、裸のオバハンのプラモデルを手に入れていたんだけど・・・。

■最後の最後の最後に
本当にこれで最後にするけれど、
今までありがとうございました。お疲れさまでした。
オレの事を「ヤスヒト」って下の名前で呼ぶ先輩ミュージシャンがいなくなってしまいました。オレがそっちに行った時には「ギター持って来たか?ギターバトルするぞ!」って声かけてください。

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