城崎にて

 城崎温泉駅にある足湯に浸かりながらこの文章を書いている。

 父の一周忌と祖母の七回忌のために大阪の実家に帰り、その流れで3ヶ所を巡る旅に出るという予定を立てたのはひと月ほど前だった。その最初の目的地がここ城崎(兵庫県豊岡市)だった。

 城崎には確か8年か9年ほど前に一度訪れたことがある。その時は祖母がまだ存命だったが施設に入っており、父と母と私の3人で訪れた。父はもう歩く足取りがかなりおぼつかなくなっており、おまけに耳が殆ど聞こえなくなっていたので、私と母は大変だった記憶が残っている。母はその頃も現在も変わらず元気だ。

 ただ、実家で半年ぶりに見た母は元気ではあったが、少し痩せて小さくなったように感じた。色々話すと、一週間ほど前に階段の上から下まで落ちて、運良く打撲だけで済んだが食欲があまり無いらしい。そういう事は、その日に言うかずっと黙っているかのどちらかにして欲しいと思った。私の実家は階段が恐ろしいほど狭くて急で、一歩足を踏み外すと必ず下まで落ちる構造になっている。ちょうど昔の文化住宅の階段と言えばイメージできる人もいると思うが、とにかくバリアフリーとは真逆の造りになっている。おまけに多くの住宅とは一階と二階の役目が逆になっており、リビングルームと台所が二階にある為、生活するには必ず階段の登り降りを行う必要がある。

 思えばこれまで家族全員が何度も階段の上から下まで落ちている。母は今回の事もそうだが、父の看病中に何度か一緒に落ちたと言っていたし、祖母が80歳くらいの頃に落ちた時、私は大学生でちょうど家に居たがその瞬間は死んだと思った。なんとか幸運にも腕の骨折だけで済んだが、寿命は少し縮めたかも知れない。私自身も0歳か1歳の頃、一番上から落ちているらしい。当然記憶は無いが、その頃はきっと猫の様な身体だったので全くの無傷だったようだ。とはいえ、3歳で落ちた時は持っていたプラスチックの玩具で顔を切り3針縫った。その顔の傷は今でも残っている。

 身体が何の不自由も無く元気な時に、自分の老後や身体が思うように動かなくなった時の事を想像するのは難しい。だが難しいからといって諦めてはいけない。想像して想像して、想像し尽くす必要がある。そんな時に助けになるのは、自分を育ててくれた親や家族の姿だ。基本的にこの人達が辿ってきた姿は自分の未来の姿だと思っている。自分だけいつまでも元気でいられる、なんてもちろん幻想だし有り得ないが、ついその事を忘れそうになる時がある。

 私は母の布団を一階に持っていき、寝る時は一階の部屋を使うように提案した。母は比較的素直にその提案を受け入れてくれたので一安心した。父は生前、ほぼ寝たきりの状態になるまで頑なに一階で寝ることを拒んだ。車の運転でも事故を起こしまくり、さんざん周囲に止められたのに決して辞めようとはしなかった。昔から父は自分を客観視するのが苦手な人だった。まぁそれについては世の多くの男性もそうかも知れないが。そういった人が歳をとると、必ず頑固で他人の助言を受け入れなくなる。多くの人を観て感じるのは、歳を取るとより一層元々の性質が露わになるという事だ。そういった意味では子供に戻ってくるとも言えるかもしれない。
母は昔から心配し過ぎというくらい色々な事を心配する性格だったが、こちらも歳を経て、また今回のコロナの件で私が東京に住んでる事もあり、その心配性にも拍車がかかったような気がする。とにかく私の無事をいつも案じてくれていたので、私もこれまで以上にそれに応える必要があった。

 せっかく城崎に来てるのに、街の魅力や様子では無く家族の記憶ばかりを書いてしまったが、以前訪れたのが家族3人だったのでそればっかりは仕方ない。足湯は17:00に終わるので出てくださいと言われた。母には迷ったが結局今回の旅は伝えない事にした。東京に戻ったと嘘をついた。明日は広島の尾道へ向かう予定にしている。

#城崎にて #家族の記憶 #旅  

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