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ハイドンにはまったころ

 学生時代のひところ、ハイドンの曲にハマった時期があります。交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノ・トリオ、ピアノ・ソナタ、ほか。なぜハイドンにハマったのか、ハイドン熱がだいぶ正常の値になって久しい今となっては、あのころの熱量でこの小文を書くことができないのが歯がゆいですが、単純に、古典派の有名な作曲家、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの3人にしても、私がハイドンにひかれる理由は、なんとなくわかる気がします。

 ときどき、私は、このnoteで、クラシック音楽の作曲家について、とくに自分の好みにあう作品や作曲家、また演奏家について書くことがありますが、そのいずれもに共通するのが、純粋器楽曲だということです。これは、私が「空気が読めない」ことと関係があります。私は、空気が読めないという特性によって、しばしば映画が理解できません。それどころか、小説やテレビドラマも、理解できないことがしばしばあるのです。その一環として、オペラやミュージカルも、苦手分野になるのです。そして、たとえばモーツァルトの得意分野は、やはりオペラであると言えましょう。モーツァルトの本領発揮のオペラの分野で、私はモーツァルトが理解できない。もちろん、モーツァルトの作品で、好きな曲は、たくさんあります。しかし、完全にモーツァルトが好きになれない大きな理由として、モーツァルトはオペラ作曲家なのです。(次に得意なのが、協奏曲か、あるいは意外と宗教合唱曲にも名曲がある。)そして、ベートーヴェン。もちろん、私もベートーヴェンの作品は好きです。9曲の交響曲は、どれをとってもいい曲ばかり、9曲とも差がつけられません。協奏曲も、室内楽曲もすばらしいですが、どうしても、「後期ベートーヴェン」の世界に入れないでいることを告白せねばなりません。もう若いころから何度もチャレンジしているので、なかばあきらめの境地ですが、後期の弦楽四重奏曲、後期のピアノ・ソナタ、あるいは「ミサ・ソレムニス」あたりは、ほんとうのよさを理解できない音楽となります。そうなっているのです。

 そこで、ハイドン。この人は、モーツァルトやベートーヴェンと違って、はっきりした「インスト」の作曲家なのです。純粋器楽作曲家なのです。「交響曲の父」と言われ、代表作は、交響曲と弦楽四重奏曲。もちろん、オラトリオ「天地創造」をハイドンの最高傑作に挙げる人がいることは知っていますが、やはり彼は器楽の人だと思います(私にとっては、やはり「天地創造」や「四季」も、理解不能音楽です)。

 そんなハイドンの傑作群のひとつ、交響曲。104曲あります。ハイドンは、モーツァルトやベートーヴェンと違って、生前から報われていた人なので、膨大な偽作が出回っていました(出版社が「ハイドン」と書いて売れば、売れるため)。そこで、ハイドンの晩年に、プレイエルが、ハイドンへのインタビューで、ハイドンに記憶をたどらせ、作品目録を作ったため、この時代の人気作曲家としては、これでもすごく偽作の少ない作曲家なのです(たまにありますけど)。とにかく番号のついた104曲の交響曲は、すべてハイドンの真作です。私は、ハイドンのすべての交響曲を聴こうとしました。当時はYouTubeなどはなく、もういろいろな手段を使って、それこそ、図書館でCDを借り、ラジオから取ったカセットテープを持っている人に借りて、50数曲、聴きました。ですから半分くらいは聴いたことになりますが、そこで私は悟りました。ハイドンの傑作は、晩年に集中していると。もちろん、若いころの作品でも、いいものはたくさんあります。しかし、ほんとうにハイドンが一皮むけて大作曲家になるのは、50代も後半、エステルハージでの勤めを終え、ロンドンに渡ったころからなのです。そのころから、ハイドンは、余人の到達できない至高の境地に達していたと考えられます。交響曲で言うと、もちろん若いころの、44番や45番もよいですし、また、パリセットと言われる82番から87番の6曲もなかなかよく、また、88番から92番までの5曲もとてもよいのですが、圧倒的なのは93番から104番までの12曲、ザロモンセットです。ことに、そのなかでも、後半6曲(99番から104番)の出来がよく、さらにその最後の3曲(102番から104番)の出来はよいです。

 ハイドンの曲の魅力は、その、ドライさ、健康的な感じ、ユーモア精神、などにあると思います。また、大器晩成であるため、もし、モーツァルトのように35歳で死んでいたら、ほとんど名前が残らなかった(ヴァンハルくらい?)と思われます(というか、後世に及ぼした影響が甚大であるため、ハイドンが早死にしていたら、後世の音楽はどうなっていたか)。ハイドンは、モーツァルトとは逆なのですが、「才能が枯渇するまで生きていた」人です。弦楽四重奏曲の第83番を書いている最中に才能が枯渇し、その曲は未完のまま出版されました。どっちが不幸か、よくわかりません。

 弦楽四重奏曲も同様で、晩年の作品ほど、充実しています。これは、上述の83番が最後の作品になりましたが、ホーボーケン番号(Hobと書かれるハイドンの作品につけられた番号)を持っている作品のなかにもたまに偽作があり、有名な「セレナード」は偽作なのですが、それ以外の有名な曲は、ほぼ真作と言ってよいです。有名な「ひばり」もよいですが、やはり最晩年の、エルデーディ四重奏曲がすぐれており、75番から80番などがすぐれています。81番、82番も。(ついでに私の好きな作品を紹介しますと、35番ヘ短調です。終楽章のフーガがなんともいえない。モーツァルトのレクイエムに似ているとも思うし。)

 ピアノ・トリオも同様で、また、ピアノ・ソナタも、有名な作品がたくさんあります。とくに、ソナチネアルバムやソナタアルバムに載っている作品は、ピアノ学習者のあいだでもよく知られていますが、ほんとうにハイドンの真意をくみ取った演奏は、逆に難しいと言えるでしょう。(個人的に好きな作品は、ピアノ・ソナタの40番ト長調です。ホーボーケン番号です。この曲の諧謔性がなんともいえない。)

 協奏曲にも名曲はあります。とりあえず私の楽器はフルートなのでフルート協奏曲から行きますと、これは偽作です(笑)。有名なのは、チェロ協奏曲第2番ニ長調か、トランペット協奏曲で、ついで、ホルン協奏曲であるとか、ヴァイオリン協奏曲などの名曲もあるのですが、これらはモーツァルトにかなわないことを認めざるを得ません(モーツァルトにないよさもあるけれど)。ピアノ協奏曲で、ニ長調の11番という有名な作品がありますが、モーツァルトのピアノ協奏曲やベートーヴェンのそれらのようなものを期待しなければ、明らかに名曲です。(そもそもハイドンはピアノのヴィルトゥオーゾではなかったのだ。ティンパニストだったのだ。交響曲のティンパニのパートの充実ぶりを見るしかない。)しかし、このなかですごいのは、トランペット協奏曲と言えましょう。なんと、すべての交響曲よりもあとに作曲された、ハイドン絶好調のころの作品で、鍵盤トランペットで演奏できる「音階」を第1楽章のモチーフに用いるなど、センスが抜群であり、短い曲ながら、ハイドンの協奏曲の頂点と言える作品になっています。
(ちなみに例の目録によると、ハイドンはコントラバス協奏曲も書いたのだ。楽譜が紛失しているのだ。もったいない話です。残っていれば、コントラバス界のスター協奏曲だったでしょう。交響曲第31番「ホルンシグナル」で、コントラバスのソロがあり、そこからしてもハイドンがコントラバスのソロをよく理解していたことはわかるだけに残念。)

 ハイドンは、モーツァルトよりも長生きしました。そして、モーツァルトとは互いに尊敬しあう仲だったと言います。ハイドンは、モーツァルトと親子くらい年が離れていますが(ハイドンのほうが年上)、モーツァルトの作品が演奏されるとなれば必ず聴きに行き(いまのようにラジオさえない時代なので、生で聴くしかない時代です)、したがって晩年の作品は、どのモーツァルト作品よりもあとの作品なのです。ハイドンの交響曲が、モーツァルトの影響を受けているということさえ言えるのです。モーツァルトも、ハイドンの影響を受けた「ハイドン四重奏曲」を書いており、相互に影響を及ぼしています。また、ベートーヴェンの「運命」「田園」の初演のころ、まだハイドンは生きており(「聴いた」わけではありません)、ハイドンがベートーヴェンの「ワルトシュタイン」や「熱情」の楽譜を見て、高く評価したこともあると言われています。

 どうも、同業者の評価が高い人みたいで、ショスタコーヴィチは、自分の弟子に、ハイドンを見習いなさい、ラフマニノフを見習ってはいけない、と言ったといいますし(しかし、かつての私の記事、リンクがはれなくて申し訳ないのですが、ラフマニノフの再評価も昨今は進んでいます。よろこばしい)、ブラームスは、ハイドンの交響曲第88番を指して、自分の第9交響曲は、このようでありたいと語ったと言われます(そして、自分がとても9番まで書けないことを悟ったブラームスは、最後の交響曲である4番よりあとに書いた「二重協奏曲」で、ひそかにハイドンの88番を真似していると私は思っているのですが、これを指摘している文章にはお目にかかったことがないですね)。
 
 ハイドンの演奏について。どうも、ハイドンの交響曲は、モーツァルトやベートーヴェンのそれと違って、ほとんど古楽器オーケストラに取られてしまったかのようです。私が学生であった90年代というのは、「ベートーヴェン交響曲全集」というCDが発売されるたび、古楽器オーケストラばかりとなり、もうベートーヴェンも古楽器に取られたかと思ったのですが、だいじょうぶ、ピリオドアプローチによるモダンオーケストラの演奏が取り返してくれました。(私は、モダンピッチの絶対音感があるため、どうしても古楽器の演奏は低く聴こえて、耐えがたいのです。ごめんなさいね、古楽器を憎んでいるわけではないです。)そして今は、もはやCDで聴く演奏も、最新の演奏とは限らないので、従来のアプロ―チによる新譜も出る時代になっています。モーツァルトの交響曲も、モダンオーケストラのレパートリーでもありますが(しかし協奏曲はさらにモダン楽器でも生き残っています)、ハイドンはどうも、モダンオーケストラでやることがほとんどなくなったような気がして、悲しいのですが。やるとなったら通むけみたいになっている。「驚愕」「奇跡」「軍隊」「時計」などが名曲扱いだった時代はどうしたのか!残念ながら時代はもとに戻らないので、もうそんな時代は来ないと思いますが、少し、私の好きなモダン楽器によるハイドンの交響曲の演奏を挙げますね。しかし、ワルターやムラヴィンスキーなどの古い録音を聴いてみると、いまと違う楽譜を使っている。ワルター指揮ニューヨークフィルの「奇跡」を聴いたときに驚いたのが、いまと明らかに違う楽譜を使っていて、その違いがはなはだしいのです。だれがどのように楽譜を変えたのか知りませんが、なるべく新しい録音から選びます。ザロモンセット(ロンドンセット)(93番から104番)は、トータルで、アダム・フィッシャー指揮オーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団によるものがポイント高いと思います。いわゆる保守的な演奏なのですが、うまく決めていて、聴きごたえがあります。ほかに、もう少しピリオドアプロ―チを取り入れているものとして、アーノンクール指揮コンセルトヘボウ管弦楽団によるザロモンセットがありますが、いまとなっては、あれは「古楽器流」というより「アーノンクール流」だったのだということがわかって、そう開き直って聴くしかないのですけれども、アーノンクールは、どこかで自己主張をしなければ気が済まないのではないかと思うほど凝っているので、その点が不自然な場合はマイナスポイントとなります。しかし、103番「太鼓連打」の冒頭のティンパニのロール(「太鼓連打」)の、フェルマータを「カデンツァ」と理解して、ティンパニにカデンツァを演奏させるのはナイスアイデアと言えます。私もあれはカデンツァだと思います。このアイデアがアーノンクールに由来するのかどうかは知りませんが、アバドもやっており、また、新日本フィルのティンパニストであった近藤高顯(こんどう・たかあき)さんが、著書(『ティンパニストかく語りき』)において、指揮者を失念しましたが、やはりこの曲のここをカデンツァとして演奏したことがあったことを書いておられます。アーノンクールのほかには、アバドやラトルがいます。アバドのほうがより自然であり、オーケストラ(ヨーロッパ室内管弦楽団)も非常にうまく、よいと言えるでしょう。ラトルの、バーミンガム市交響楽団の時代の録音は、ときにあざとい系のわざとらしさを出しており、のちのベルリンフィル時代やロンドン交響楽団の時代の演奏はよく知らないで本稿を書いていてすみませんが、102番のホルンを1オクターヴ高く解釈しているなどの特徴があります(ピノックの48番のホルンの高さからすると、フリッチャイの48番のオクターヴ低いホルンは、逆に普通すぎて驚く)。102番は、バーンスタインもよかったりします。ドライなところがハイドン向きなのでしょう。バーンスタインは、ヤング・ピープルズ・コンサートでも、このハイドン102番を取り上げていました。新しいハイドン録音を知らないので、どんどん古いほうへ行きますが、したがって古い楽譜を使っている演奏にも触れますが、カザルス指揮マールボロ音楽祭管弦楽団による94番「驚愕」はとてもよいです。一音、一音に魂が込められているかのような気迫があり、圧倒されます。ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルの104番も、まるでショスタコーヴィチみたいで、ある意味でハイドンの真の姿を表出していると言える演奏ではないでしょうか。ラトルは、あちこちのオーケストラで、90番をやっていますが、これは、第4楽章に、ダミーの終わりがあるという、ハイドンが「しかける」ところがあります。そこで間違えてお客は拍手をするわけですが、ラトルはさらに、後半の繰り返しも実行し、そのダミーの終わりも繰り返され、そこで、「今度こそ終わりですよ!」と言わんばかりの終わり方をし、お客が、今度こそ安心して拍手をすると、やはりそれはダミーの終わりなので、まただまされましたね!続きがあります!という演奏会を、あっちこっちでやっているみたいでした。91番というのは、近衛秀麿が得意とした曲で、レコーディングもあります。クレンペラーがフィルハーモニア(ニュー・フィルハーモニアの名前のときもある)を指揮して録音したハイドン交響曲のいくつかのうち、よいものは非常によく、92番「オックスフォード」とか、とくに100番「軍隊」はたいへんよい。ホルンのやる気がとてもあって、さすがロンドンのオーケストラだと思われますし、第2楽章はちょっと遅すぎですが、聴きなれるとそんなにおかしくないです。「軍隊」は、交響曲にティンパニ以外の打楽器の入った、有名な曲では初めての交響曲で、第2楽章で登場した打楽器群が、フィナーレの最後も飾る、特別な高揚感のある曲です。軍隊だから高揚感があるというよりね。軍楽隊のイメージですね。101番の「時計」っていう曲は、これだけの傑作がならぶなかで、ちょっと特徴に欠けるイメージのある曲ですが、もちろんいい曲で、そのニックネームの由来となった第2楽章のテーマは、ハイドンが非常に多用したリズムである「複付点」のリズムになっています。(複付点とは、普通の付点が音価を3:1に内分するのにたいし、7:1に内分するリズムで、ハイドン作品に頻出します。例、ピアノ・ソナタの第52番の冒頭。)99番は、さきほど述べたザロモンセットの後半で、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットがそろうという編成上の点からも、アマオケがときどきやる曲ですが、なかなか名演奏には出会えません。こういう
ときは上に書いたアダム・フィッシャー盤を聴くことになります。モーツァルトと違って、ハイドンはクラリネットを信用していません。軍隊におけるクラリネットの干し方はなかなかひどいものがあります(第2楽章しか出番がない)。逆にティンパニは活躍するので、これは自分の楽器は「おいしく」書くという作曲家の宿命みたいなものです。
 交響曲第60番「うかつ者」のストコフスキーのライヴもよい。ピッチがどうにかなるといいと思いますけど。最後の楽章で、うかつにもピッチがおかしいまま出始まり、いったん曲をやめて、チューニングをやり直すという曲ですが、これも90番と並んで、当時、楽譜屋さんでスコアを立ち読みしたものです。とにかく、「若いころは実験的、晩年は円熟」というところは、なんとなく武満徹(たけみつ・とおる)のたどった道にも通じるものがある気がする(武満徹については、以前、書きました。リンクがはれなくてすみません)。ショルティ指揮ロンドンフィルというハイドンの名演奏もあります。やはり、きっちりかっちり決めていくショルティみたいな指揮者の演奏はハイドンに向いているのでしょう。まるで、すべて信号が青であるようなときの車がハイスピードで駆け抜けていくような颯爽とした演奏が、ハイドンの本質を表しているようで、すばらしい。彼は「サー」ゲオルク・ショルティであることを忘れてはならないでしょう。ロンドンに渡ったハイドンが成功した円熟期の傑作にふさわしいと言えましょう。

 弦楽四重奏曲にも名演奏はたくさんありますが、とりあえずエルデーディ四重奏曲をじょうずに弾いてくれれば満足します。「五度」「皇帝」「日の出」など。「十字架上の最後の七つの言葉」という、いろいろなバージョンがあるものの、弦楽四重奏版が最も有名な気がする曲があるのですけど、聖書でいうと、イエスが十字架上で七つの言葉を言ったわけではない。わけではないというと語弊がありますが、以下は礒山雅の著作で知ったことです。ルターの仲間の神学者で、ブーゲンハーゲンなる人物がいて、ルターの依頼で、「調和福音書」というものを書いたそうである。これは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書をミックスさせたもので、ルターもしばしばこれをテキストに説教をしたというのだ。礒山氏の本にちょっと引用があったが、ブーゲンハーゲンはやりたい放題である。この「調和福音書」によれば、イエスは十字架上で7つの言葉を言ったことになる(4つの福音書のミックスだから)。これについてよく知りたいのだが、4年前(2017年)の宗教改革500周年のときに日本語で出たブーゲンハーゲンの本にもどうやら載っていなくて、私の中でなぞとなっています。シュッツの同名の有名な音楽も、同様に「調和福音書」によっています。ハイドン作品も、有名なバージョンは「インスト」なのがおもしろい。

 ピアノ・ソナタは、多くのピアノ学習者が通る道であり、触れておいたほうがよいと思うので、少し書きます。モダンピアノで弾くにしても(さきほども言いましたが、古楽器は低く聴こえて耐えられないですので)、やはりドライに弾いたほうがよい。イエノー・ヤンドーの演奏はよかったです。ヤンドーって、ピアノ界の外山雄三みたいな感じで、こういう硬派で純音楽な作品には抜群の適性を示すと思います。ホロヴィッツも、なかなかドライでよろしいと思います。ソナタアルバムとかに載っていない作品も、ぜひ親しまれるといいと思います。演奏が難しいのは交響曲といっしょ。ショパンのようなわけにはいかないのです。(ショパンをバカにしたわけではないのでご注意ください。ショパンもすばらしい作曲家です。)ハイドンのピアノ曲で、ソナタでないものは極めて少なく、リサイタルで弾かれるようなものとしては、アンダンテと変奏曲ヘ短調を除いて、ほぼ「ソナタ」という曲名ではないかと思います。34番のホ短調のソナタのフィナーレの変奏曲にも象徴されますが、ハイドンは、長調と短調が交互に登場する変奏曲を得意としています。交響曲103番の第2楽章とかもそうですね。モーツァルトの、長調の連続のなかに、1回だけ短調が入るパターンと好対照です。

 管楽器の室内楽をひとつ、紹介させてください。例のブラームスが、有名な変奏曲で引用している、「聖アントニのコラール」です。管楽八重奏のためのディヴェルティメントですが、普通の編成とは違い、オーボエ2、ホルン2、ファゴット3、コントラファゴット1という、8人中6人がダブルリードで、半分がファゴット族という、すごいサウンドのする曲です。私はトゥルコヴィチの指揮する演奏ではじめてオリジナル版を聴きましたが(生で聴きたくて、仲間にやらせようと、楽譜まで借りて来て、実現しなかった)、よく木管五重奏に編曲されたヴァージョンが、木管五重奏初心者によって演奏されます。でも、ぜんぶで10分くらいの短い曲ながら、充実した曲です。偽作だったかどうか、記憶が定かでありませんが、ここまで名曲なら、偽作でもなんでもかまわないから紹介しました。アフラートゥス・クインテットという超優秀な木管五重奏団の録音がありますが、明らかに手抜き。こんな優しい曲は、寝てても吹けるくらいなんでしょうけど、手を抜いたのは、聴いててバレるんですね。

 最後に、私の楽器はフルートなので、フルートの作品について、紹介します。上述したハイドンのピアノ・トリオは、だいたいチェロは通奏低音の時代からあまり踏み出しておらず、楽譜を見ても、ほとんどピアノの左手をなぞっているだけにしか思えなかったりしますが、とにかく、「ヴァイオリン、チェロ、ピアノ」という編成の可能性を追求した、聴きごたえのあるジャンルで、こういうものがなければベートーヴェンの「大公」のようなものも存在しなかったのだろうと思います。そして、数えるほどですが、「フルート、チェロ、ピアノ」という作品があるのです!フルートとしてはしあわせなことです。それから、ロンドントリオと言われる、フルート、ヴァイオリン、チェロ(フルート2本とチェロでやることもある)という室内楽があります。しかし、ハイドンにフルート四重奏曲があることはあまり知られていません。インターネット黎明期から、ハイドンにフルート四重奏曲があるのかどうかは、ネットでも長いこと「なぞ」でした。しかし、私は、ハイドンのフルート四重奏曲は、若いころ、やったことがあるのです!ト長調op.5-4。(ここまでホーボーケン番号で書いてきましたが、これらは作品番号のほうがわかりやすいので、そうさせていただきました。)だから「ある」ことは間違いありませんが、ほとんどCDなどもなく、かなり詳しい人でも知らない曲でした。いまはYouTubeがありますので、調べればすぐに誰かの演奏はヒットします。ウェルナー・トリップらのウィーンフィルのメンバーの室内楽のレコードがあった。CD化を希望します。

 以上です!

※2023年6月11日の付け足しです。ハイドンのフルート四重奏曲は、ランパルの録音があることがわかりました。ナクソス・ミュージック・ライブラリで聴けます。普通は有料でしょうが、私は近所の図書館の会員になって、無料で聴いています。これに限らず、図書館はぜひ活用しましょう。

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