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問題解決という呪い

比較的最近、私はある教会に行きました。そこの伝道師さんは話しかけやすい人です。私は(あつかましくも)伝道師室の扉をノックして、話をし始めました。その伝道師さんは仕事がたまっていて忙しそうでしたが、時間を割いて私の話を聞いてくれました。そして、助言をくれました。私にはそれは的外れに感じられましたので、その助言を「却下」すると彼は言いました。「腹ぺこさんの話を聞いているのに、ぼくの助言を聞こうとしない。ぼくだって時間を割いているのですよ。腹ぺこさんの中で結論が出ているならぼくに聞く必要はない」。そのとき私はとっさに言葉にできませんでしたが、私の気持ちは「話を聞いて欲しい。何かを解決して欲しいわけではない」というものだったと思います。そしてその伝道師さんの中では「人の話を聞くとは、相談に乗ることであって、解決案を示すこと」という暗黙の前提があったということでしょう。

私が大学院生であった2003年に、ポアンカレ予想は肯定的に解決されました。私は、翌年頭にあった、当時の3次元多様体論の日本での第一人者であられた小島定吉先生(東工大、当時)による東大での90分間のセミナーを聴いています。「ポアンカレ予想の解決の日本初紹介」を生で聴いたことになります。歴史の1コマにいさせていただいたことを思わされます。数年後、これはNHKが番組にして、日本全国の人の知るところになりました。いろいろ気になる点はありますが、一番気になったのは、この番組を成立させている世間の背景です。「数学者って何をやっているのかな。数学と言えば、学生時代、たくさん問題を解かされたなあ。そうだ!世界的な数学者は世界的な問題を解いているに違いない」という認識があって成立している番組であることは明らかだったからです。

大型の書店などに行って数学の本を見ますと、理工学書のほか、統計学の本や、プログラミングの本などが目立ちます。それ以外では、圧倒的に、「学習参考書」です。高校までの算数・数学の本の99パーセント以上は、受験用の「問題集」なのです。世の中の「暗黙のうちに数学とは問題を解くものだと思っている」証拠をひとつ挙げます。これは啓林館の『わくわく算数3上』という小学3年生向けの算数の検定教科書の凡例の「学習の進め方」というページの最初に何気なく書いてあることです。「どんな問題かな」。小学校3年生の算数の教科書からして「算数とは問題を解くものである」という暗黙の前提がある証拠ではないでしょうか。

四半世紀くらい前に読んだ深谷賢治先生という京都大学(当時)の数学の先生の書かれたエッセイにも書かれていました。当時はポアンカレ予想は未解決問題でしたが、世の中が「世界規模で」「百年単位で」問題解決型に向かっていることを憂いておられる文章でした。この傾向は顕著である気がします。文科省が「問題解決型学習」というものを導入していたこともあります。われわれも、クイズ番組は好きだったりします。「この漢字の読みは?」といった問題は好きですが、「環境問題」とかいう「本物の問題」には目を背けています。ある人が言っていましたが、問題解決とは、現代の呪いではないでしょうか。

冒頭の話に戻りますが、多くの人は「解決」よりも「共感」を求めています。問題は解決できなくても「そうだったんだね、大変だったね」と話を聞いてくれることを望んでいます。私が最近、校正した本にも出て来ました。聞き上手というものは、解決しようとしたり、アドバイスをしたりしないそうです。

われわれは、小学生のころから「問題とは解くもの」という観念に汚染されています。「問題解決」の対極にあるものが「気の紛らわし」だと思います。問題は解決しなくても、気の紛らわしで生きていくのです。若いころは「ショスタコーヴィチの交響曲第10番」のような、冒頭の苦悩と関係ないバカ騒ぎで終わる音楽に違和感を覚えることもありましたが、それは人間の偽らざる姿だと言えるのかもしれません。

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