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「愛してる」と人が言わない理由

「ベートーヴェンの交響曲第1番は決してやさしい曲ではありません」。あるプロの演奏家のツイートです。実は、ベートーヴェンの交響曲第1番の演奏は「やさしい」のです。これはそのことを前提としたツイートなのです。

世の中でこれだけ「多様性」という言葉を聞くのは、いかに世の中に多様性がないかということを示しているでしょうし、「男女平等」とか「性的少数派差別反対」とかひんぱんに聞くのも、いかに男女が平等でなく、相変わらず「男が上で女が下」という認識が前提とされているかの証拠だと思います。

賛美歌で「キリストにはかえられません、有名な人になることも、ひとのほめることばも、このこころをひきません」(『讃美歌21』522番2節)という歌詞がありますが、これはおそらくすごく有名になりたくてほめられたい人の作詞でしょう。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(新約聖書ルカによる福音書11章9節)という有名な聖書の言葉も「世の中は求めても与えられないことばかり」という大前提で支えられている言葉だと言えると思います。

人がなかなか「愛してる」と言わない理由も同様だと思います。「愛してる」と言った瞬間に「愛してない」という意味に響くのです。それを直観している人ほど「愛してる」と言わないのだと思います。

私の算数・数学教室のホームぺージをリライトしてくれたリアルの教会の仲間は、私の自己紹介の文章を読んで、メールに「感動しました。」と書いてくれました。その人は絵文字をたくさん使う傾向にある人ですが、そのときは「感動しました。」と、びっくりマークさえ使わなかったのです。「。(句点)」で終わっていました。これは、彼女がほんとうに感動したことを意味しています。ほんとうに感動した人は、びっくりマークも使わないのです。たとえば「感動しました!」と書くと、「感動してません!」という意味になりかねないからだと思われます。

最近、私の友人が出版する本の校正をしました。彼はメールに「頼んでよかったです。ありがとうございます。」と書いて来ました。やはり一切のびっくりマークがありません。彼が本当に感謝してくれているのがよく分かります。

あるとき、ある町である牧師さんと仲良くなりました。ある日、その牧師さんが道の向こうを、スマホで誰かと話しながら歩いて来ました。先に私に気づいたのはその牧師さんのほうです。その牧師さんはこちらを目で見ながら、あいているほうの手を下のほうでちょっと動かしました。「よっ」という感じです。うれしかったです。これは非常に親しいあいさつです。その町に4週間、滞在して、いま住む町に戻って、こちらの牧師さんにオーバーアクションで「おかえり~!!」と歓迎されたのもうれしかったですが、私はその町で仲良くなったその牧師さんの「よっ」という「無愛想な」あいさつがとてもうれしかったのです。

故・上島竜兵さんの「押すなよ!」というのは「押せ!」という意味でした。福音書のイエスがやたら無愛想なのは、イエスが真の「愛の人」であったことを意味すると思います。

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