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証しはいけません

 (これは、先ほどの記事を上回るキリスト教マニアックな記事ですので、よほど教会のようすに詳しくないと、ちんぷんかんぷんである可能性の高い記事です。それでもよろしいというかた、キリスト教の内部のようすに詳しいというかたは、どうぞお読みくださいませ…)

 16年前、結婚と引っ越しと就職をやって、別れた教会の仲間で、大学院は神学部に行った人がいます。非常に賢い人でした。先日、16年ぶりで話したと思っていましたが、2007年の日記を読むと、そのころに1度だけ電話で話しています。彼女は、牧師になる勉強をしていました。そして、その神学校では、「説教の実習」があったのです。つまり彼女は神学生で、実際の教会の礼拝で「説教」(教会で牧師がする宗教的説話)をするという実習があるのです。彼女が大学院から言われている約束というものを、2つ、挙げてくれました。1つは、「その日の聖書の箇所でやること」。これはつまり、「自分で好きな聖書の箇所を選んではいけない」という意味でした。(どの教団・教派でも、いわゆる「聖書日課」というものがあり、「その日に定められた聖書の箇所」というものがあるのです。)もうひとつの約束は、「証しはいけません」というものでありました。「自分の信仰について人前で話すこと」を「証し(あかし)」と言いまして、つまり、いかにして自分はキリスト信仰を持つようになったか、などについてしゃべるのが「証し」です(内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎 』などという著作は、題名からして、壮大な「証し」ですね)。それはいけない、ということです。あくまで「説教」(その日の聖書の言葉についての解説)であるべきであって、自分の信仰の告白であってはならない、という意味でした。なかなか神学生には厳しいルールですが、これが「説教の実習」なのだろうと思いました。

 そして、私の通う教会では、年に1度、「神学校日」があります。その仲間のように、神学生が実習として説教を行う日です。私はかつて、「自分は睡眠障害のために滅多に教会に行けないが、ハッピーマンデーの前日はよく行っていた。なぜなら翌日に寝だめができるから」と書いたことがありましたが、しばしば神学校日はハッピーマンデーの前日になるため、けっこう神学生の初々しい説教は聴いたものです。ところが、うちの教会に来る神学生は、上述の彼女が言う「説教の実習」とは著しく違いました。まず、聖書の言葉は自分で(自分に都合よく)選んだと思われる箇所であり、しかも、ほとんどいつも「証し」でした。もちろん若者の初々しい「証し」を聴くのは嫌ではないので、それなりに喜んで聴いていましたが、あるとき、みんなのいる前で、うちの教会の牧師に、この話をしてしまったことがあります。じつは、上述の彼女が行っていた神学校と、うちの教会に説教の実習に来る神学校は、異なる学校です。決して「学閥」があるわけではないのですが、それぞれの教会には「教派」というものがあり、神学校にも教派はあり、「ある教会とつながりのある神学校」というものがあるのは確かです。私がいま通う教会は、その神学校と強い結びつきがあるのです。その牧師は笑いながら、学校の違いだね、と言っていましたが、明らかに「説教の実習」の勉強になるのは上に書いた学校のほうでしょう。しかし、「いい話」が聴けるのは後者の学校かもしれず、とにかく1週間を始めるにあたって信仰の養いになるような話を聴きたい信者のひとりである私は、この話を考え出すと、果たしてどちらがいいのか、わからなくなるのです。

 それだけの話です。これも、あまり教会の実情に詳しくないかたには、ちんぷんかんぷんの話だった可能性が大きいですね。ごめんなさいね。以上です。

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