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聖書はバーチャルリアリティー

(ふう。「採譜」だの「校正」だの、自分が著作権者でない仕事ばっかりやって、メンタルが疲弊しました。たまには、自分のオリジナルの著作を書きたいです。それで久しぶりにnoteに戻って参りました。どこかに載るとか、そういうことを気にせずに、字数も気にしないで、自由に書きたいです!)

コロナ禍以降、いろいろなものがリモートになりました。教会の礼拝もそうです。オンライン礼拝と言っています。多くの教会が、たとえばYouTubeで、あるいは他の手段で、礼拝をネットで流しています。2020年の4月の緊急事態宣言以降、そうせざるを得ない状況で始まったのがオンライン礼拝でした。

それから2年半くらいが経ち、これらの現象を改めて考えている聖職者や神学者がたくさんいることに気づかされます。「オンライン礼拝は、『本物の礼拝』なのか」と。私のような一信徒には、あまり関係のないことのようにも思える議論なのですが、どうも100年くらい前に出て来た「レコード鑑賞は音楽のうちか」という議論にそっくりである気がして、記事を書いてみる気になった次第なのです。そして、聖書そのものについても。

レコードの登場によって、音楽は「何回でも聴ける」「曲順を入れ替えても聴ける」「パジャマ姿で寝っ転がってでも聴ける」「嫌なら途中で止められる」「地理的に離れた演奏でも聴ける」ようになり、礼拝のリモート化の特徴と瓜二つであるように思えます。教会のオンライン礼拝も「何回でも聴ける」「同時(オンタイム)でなくてもよい」「パジャマ姿で寝っ転がってでも礼拝に参加できる」「嫌なら途中で止められる」「地理的に遠い教会の礼拝にも出られる」などの特徴があり、いままで「みんなでいっしょに賛美歌を歌うからこそ礼拝」と思って来た牧師さんがたは、抵抗があるのでしょう。音楽の世界でもそうでした。レコードを「音の缶詰」と呼んだ著名な歴史的オーケストラ指揮者がいました(たしかフルトヴェングラー)。また、昔の役者さんは、映画出演を軽蔑する人も少なくなかったと聞いたことがあります。

「日本語が通じる以上、どの日本語の礼拝に出ても同じだ」と思う信者は、テレビ番組の感覚で、好きな教会の礼拝が選べます。これに危機感を覚えている聖職者もいました。いままでオーケストラを聴くとしたら、生で広島交響楽団(たとえば)を聴くしかなかったのに、レコードでウィーン・フィルが聴けてしまう!自分の説教に自信のない牧師ほど、「人気のあるほうへ信者がいってしまうのではないか」と危機感をつのらせるのでしょうね。

しかし、そんな心配はいらないと思います。レコードはやがてCDになり、iPodになり、いまやスマホで音楽が聴ける時代になりました。その一方で、生演奏がなくなることはありません。皆さん生演奏のよさも分かっておいでなのです。だから、細かい理屈は置いておいて、「オンライン礼拝」と「生の礼拝」も、そのように棲み分けが進むだけの話ではないかな?と思ってそれらの議論を私は見ています。

そして、それで思うのが、「聖書こそバーチャルリアリティーだ」ということです。レコードとは「記録」という意味です。聖書を読むとわれわれは2,000年前のガリラヤにいる気分になります。2,000年前の日本はおそらく弥生時代で、文字もありませんでした。しかし聖書の世界では文字と紙があり、イエスの言動は記録されたのでした。場所も違うし、はなはだしいタイムシフトですけど、とにかく聖書そのものがそういう性格を持っています。

イエスの声はわかりません。当時、録音はなかったからです。イエスの顔もわかりません。当時、写真はなかったからです。ベートーヴェンが自ら演奏するレコードが存在しないのも、当時は録音という技術がなかったからですが、ベートーヴェンは「楽譜」を残しました。ダビデが竪琴でどういう曲を弾いていたかわからないのは、当時、録音もなく、かつ楽譜もなかったからです。

そう考えてみると、やはり聖書そのものがバーチャルリアリティーなのだということに気づかされます。

いま、音楽鑑賞が趣味ですと言っても、必ずしも生演奏を指さないですよね。しかし、生演奏の需要はちゃんとあるわけです。礼拝もそうなっていくのじゃないかなあ…。

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