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キリストが十字架から降りられなかった本当の理由

イエス・キリストはたくさんの人の病気や障害を癒やしましたが、自分では十字架から降りられませんでした。なぜでしょうか。

あるとき、海外のものと思われる1コママンガを見たのです(それをサムネにしたかったのですが、そのマンガ、検索しても出ません)。「あなたが本気を出せば」という表題がついており、十字架にかけられたキリストが筋肉もりもりになって、両腕で、自分を釘で刺してある十字架を、バキン!バキン!と折ってみせるというマンガです。直観的に思いましたが、そのようなことはあるでしょうか。自分で自分を救うことはできるでしょうか。イエスは十字架から降りられたのだけれども自分のためには力を使わなかったのか、それとも、本当に十字架から降りられなかったのか。私は後者である気がしてなりません。

バリバラの玉木幸則さんがYouTubeで言っていました。子どもたちによく言うそうです。みんな、お母さんからは勉強しなさいと言われ、先生からは叱られる。だから、自分で自分をほめよう。夜、寝る前に、自分の頭をなでなでしながら「自分、よくがんばったね。偉いよ」とほめてから寝ることをすすめているそうです。そして、朝起きたときも自分の頭をなでなで。「自分おはよう。よくがんばっているね」。自分で自分をほめなくてはならないほど誰からもほめてもらえない今どきの子どもがかわいそうになりましたが、これは「お祈り」と紙一重ですね。寝る前に「神様、今日もありがとうございました。おやすみなさい」と言ってから寝、朝は「神様おはようございます」と言って起きる人と紙一重です。有森裕子さんの「自分で自分をほめたい」という言葉が流行った時期もありましたが(古い話で恐縮です)、どうも自分で自分をほめることには限界がある気がします。ひとからほめられたら「よっしゃ!」という気分になってやる気が生まれますが。

ある仲間が自分で自分をほめていました。「あんたは偉い!」と言って自分をほめているのですよ、と彼は言っていました。私は即座に「ぼくは偉い!」とは言わないのですね、と言いました。多分、彼は、いまは天国にいる彼の指導教授に「あんたは偉い!」と言ってもらうところをイメージして自分自身に「あんたは偉い!」と言っていたと思われるのです。

「悲しいことがあっても なきたい時にも いつもいつも きみのこと 守ってくれるだろう イエスさまがきて イエスさまがきて イエスさまがきて 守ってくれるだろう」というこどもさんびかがあります。「いつもいつもきみのこと守ってくれるだろう」。これ「いつもいつもぼくのこと守ってくれるだろう」とは歌いませんね。やはり自分で自分は励ませないのです。皆さんこの歌を歌いあって、互いに励まし合っているのです。

というわけで、イエス・キリストはほんとうに十字架から降りられなかったのではないかというのが私の意見です。自分で自分をほめることはできないように、自分で自分を励ますことはできないように、自分で自分を救うことはできないのではないでしょうか。その典型がイエス・キリストの十字架である気がします。

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