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今の中学生も『博士の愛した数式』を借りる

 (きょうの算数・数学の話は、「割り切れる」ということを理解なさっているかたにはお読みいただけると思っておりますが、算数や数学とは限らない要素のある話です。なぜ主題の小説が今でも中学生に人気があるのかというお話です。よろしければお読みくださいね。)

 私が生涯で「友数(ゆうすう)」あるいは「友愛数」という言葉を聞いたのは、2回です。そして、その2回は、極めて近接しています。いずれも17年前、2005年くらいのことなのです。私が、数学者の道をあきらめ、中高の数学の教員になろうとした時期です。

 1回目は、当時の教会のある高齢のご婦人から聞きました。そのかたは、長いこと、中高の数学の先生をなさっていました。とても笑顔のすてきなおばあさんでしたが、私が、中高の数学の教員になると申しますと、「それはまあ大変な…」と満面の笑顔でおっしゃいました。とても大変な仕事だということをよくご存知であったわけです(私にはいかにも向いていないこともわかっていてそうおっしゃったのかもしれません)。そして「中学生には『友数』とかね…」とおっしゃいました。私はその概念を知らなかったので、うかがうと、片方の約数の和がもう片方になっている整数のペアのことでした。「中学生受けのよい小ネタ」ということらしかったです。少し「コツ」を教えてくださったわけです。

 2回目が、ほぼ同じ時期に、同じ教会で、やはり高齢のご婦人が、私が中高の数学の教員になると聞いて、くださった文庫本です。小川洋子著『博士の愛した数式』でした。今、検索して調べましたが、たしかにその年(2005年)に文庫本になった本です。まったく知らない小説でした。そもそも私は小説を読まない人間でしたし(小説を読むのは空気を読まねばならないことがしばしばあります。私は同様に、オペラも、ミュージカルも、映画も、テレビドラマも苦手です。「数学の論文は得意です」と言えるほど立派ではありませんが、たしかにそういう論理的なもののほうが向いています)、しかも私の専門は位相幾何学でした。この「博士」はどうやら整数論らしい?(だいぶ専門分野が違います。)とにかくその小説には「友愛数」という言葉で、上述の「友数」とまったく同じ概念が出て来たのでした。以下、表記を統一するため、小説にあわせて「友愛数」と書くことにします。とにかくあまりに専門が違ったので、そういう、中学生でも理解できる整数の「たのしい」話題すら、私は知らなかったのです。「友愛数」という話を生涯で聞いたのはこの2回だけです。まもなく私は中高の教員になりましたが、生徒さんの前で友愛数の話をしたことはありません。

 あまりに抽象的な話が続いたかもしれませんので、友愛数の例を出しますね。220と284です。いまでもこれになじんでいない証拠に、これはいまネットで検索しました。220の自分自身を除いた約数は、小さい順に、1、2、4、5、10、11、20、22、44、55、110です。これらの和が284になっています。また、284の自分自身を除いた約数は、小さい順に、1、2、4、71、142です。これらの和が220になっています。これはいったい何の意味があるのか、この現象にどんな「御利益」があるのか、私はまったく知りません。(数学の研究者の皆さんの中には「これが何の役に立つか」ということを言うとき、しばしば「御利益(ごりやく)」と言う人がいたことを思い出してその言葉を使ってみました。)しかし、第一のご婦人の長年の経験によると、これは中学生に受けのよい話題であるらしいわけです。「何の役に立つか」というより「この現象そのものがおもしろい」というわけですね。

 さて、『博士の愛した数式』という本は、とても有名であることがわかってきました。映画化もされ、私はそれをテレビで見た記憶もあります。そして、私は教員を11年勤めましたが、徹底的にダメ教員で、ついに「教員失格」の烙印を押され、司書教諭の勉強をさせられました。そして、私は極めて優秀な成績で司書教諭の単位をそろえたにもかかわらず、教員を辞めさせられて、学校司書になりました(「司書教諭」と「学校司書」は明確に異なる概念です。ここで詳述はしませんが、この2つの概念は、ほとんどの人には区別がつかないようです。そもそもその学校の人間もよくわかっていません。きっちり司書教諭の勉強をした私だけが「司書教諭」と「学校司書」の明確な違いを理解していました)。とにかく、事務職員になって最初の2年弱は、学校司書をやらされました。それでもいっしょうけんめい努力したものです。徹底的に向いていなかっただけでなく、図書部長が極めて陰湿なハラスメント上司であったこともあり、また私は休職を始めるのですが、とにかくその2017年、2018年くらいの時期でも『博士の愛した数式』は極めて人気のある本でした。ひんぱんに中学生が借りていくのです。私はこの記事の題を「今の中学生も『博士の愛した数式』を借りる」としましたが、じつは2022年現在のことは知らないのです。でも、少なくとも2018年くらいの中学生はひんぱんに借りて読んでいました。長いこと人気のある本です。

 ここで言いたいことは、「友愛数」という概念は、やたら中学生に受けがよいということと、『博士の愛した数式』という本は、かなり中学生が好んで読むことです。そしてその本には「友愛数」が出て来る。これは、作者が「賢い」のだと思います。それは、一般の人に「受ける」ネタなのです。第一のご婦人のように、こういう「子どもたちに受ける小ネタ」をたくわえている教員は多かったものです。それは学校の教員にとどまらず、ピアノの先生でも、なんでもそうです。「これを言うと多くの生徒が『へえ!』と言って興味を持つ」という小ネタを経験上、彼らはたくさん引き出しに入れていて、それらを少しずつ出すことによって、「先生稼業」を成立させているのでした。この私の書きかたがやや「嫌味ったらしい」のは、それが私にとって極めて苦手なことだったからです。だから教員をやめさせられたようなものです。私は「常識」というものを知りません。これも発達障害の障害特性なのですが、「空気が読めない」というのは、正確に言うと「多くの人と違う空気を読んでいる」ということなのです。常識とは「多くの人が暗黙のうちに共通して了解しているもの」です。私はよく「お前には常識がない」といじめられ、また、叱られました。そして、この「友愛数」のごとき「教師の小ネタ」とは、まさに「常識と非常識の境目」をねらった、「きわどい」ものなのです。常識的すぎてみんなが知っていることだと「当たり前ではないか」と言われて相手にされず、かといってやたらマニアックすぎると、「なんだよそれ」となって、やはり相手にされません。「わかりそうでわからない」という絶妙の線をねらったものが、これらの小ネタであるわけです。その意味で、第一のご婦人も、小川洋子さんも、非常に賢いと言えましょう。

 私が大学院生であったおよそ20年前、「トリビアの泉」という番組が流行りました。このような「常識と非常識の境目」をねらった「ムダ知識」を紹介して、聞いている人はまさに「へえ!」と言って驚く、という番組でした。(数学では「自明な」という言葉を英語で言うとき「トリビアル」というので、この番組の名前を知ったときには、およその意味がわかりました。)「トリビア」という言葉は生き残っていますので、この番組を知らない若いかたも、この言葉をご存知でしょう。ただし、この番組の放送されていたころと、現代とで、「トリビア」という言葉のニュアンスは違ってきています。当時は「ムダ知識」と言っていました。現代では、「知って得する豆知識」といった意味合いが強いようです。たとえば小学校の社会の教科書に「歴史トリビア」というのが載っていたりします。ムダな知識であれば教科書には載せまい。少し、実際に放送されたトリビアを紹介しましょう。「『豚に真珠』はキリストの言葉である」。これは、私も含めてある程度、聖書に親しんでいる人間にとっては「それはそうですけど」としか言いようのないものです。しかし、多くの人にとって、これは「へえ!知らなかった!」という知識なのでしょう。マニアックすぎてよくないトリビアの例も挙げますね。「アブラハムの父の名はテラである」。確かにこれは多くの人の知らない知識ですが、マニアックすぎて誰も「へえ!」とはなりません。このように、「トリビアの泉」を成立させていたトリビアは、まさに常識と非常識の境目をねらったものばかりだったのです。

 もうひとつ、実際に放送されたトリビアを例に挙げましょう。「ドヴォルザークの『新世界交響曲』のシンバルの出番は1発だけである。そして、ずっと弾いているヴァイオリンの奏者と、1発だけのシンバルの奏者のギャラは同じである」。これは、明らかに番組をおもしろくするために話を盛ったとしか言いようのないものです。私はアマチュア・オーケストラの経験があります。確かに「新世界」のシンバルは第4楽章に1発あるだけです。ただし、その奏者は、第3楽章のトライアングルを兼任するのであり、トライアングルの出番はけっこうあります。(シンバルが1発の交響曲の例を出すなら、ブルックナーの7番が適切です。あれはほんとうに1発しかありません。トライアングルもあるのですが、その1発シンバルと同時に鳴るので、兼任できません。そのトライアングルもそこだけの出番。また、新世界で干される楽器の代表はテューバです。第2楽章の、非常にわずかしか出番がありません。しかし、「新世界のテューバ」とか「ブルックナーの7番のシンバル」では、番組は成立しないのでしょう。)それから「ヴァイオリンとギャラが同じ」というのも私には疑わしく思えます。私にはアマオケの経験しかなく、プロオケのギャラの事情をまったく知りませんが、たとえば「正社員」と「エキストラ」で額はかなり違うであろうことは、多くの職場と同様である気がします。コンサートマスターなどは「英雄の生涯」などで手当てをもらえるオケがあるらしいことは何かで読んだ記憶があります。年功序列かもしれません。首席奏者は2番奏者よりギャラが高そうな気がしますが、そうではないらしいことが以下のことからわかります。私が学生時代にお世話になった多くのプロオケの先生の例で見てきたことです。管楽器というのは、年齢との戦いです。ヴァイオリンやピアノや指揮者などが、年齢を重ねても衰えないのと違って、管楽器は声楽と同様、年齢が関係あります。そこで、自分の年齢に限界を感じた管楽器の首席奏者の先生が、みずから2番奏者に「降格する」ケースがたくさんあったのです。もしもそれで給料が下がるなら、多くの首席奏者がその地位にしがみつくことになり、それはオケのためにもよくないのではないか。という、すべて憶測ですが、そのトリビアは、かなり話を作っている可能性が高いです。少なくとも、新世界のシンバルが1発しか出番がないのは作り話だと思います。その人はトライアングルも兼任するはずです。

 だいぶ私の話はマニアックになりました。話を数学に戻しましょう。『博士の愛した数式』という本を読んで、非常に気になったことがあります。「数式」という題の小説なのに、数式が滅多に出て来ないのです。さきほどの「友愛数」にしても、「数式」ではありません。「数」ではありますけど。1つだけ、数式が出て来るのです。「博士の愛した数式」とはその数式をさすとしか言えないと思います。それは、$${e^{\pi i}=-1}$$ というものでした。これも、以下に見る通り、作者が非常に賢いことを意味しています。これは、「友愛数」と違って、多くの人には説明できません。「友愛数」は、「約数」すなわち「割り切れる数」ということを理解していたらわかるので、多くの中学生(そして大人)の興味を引くことができたと思われます。この式は理解できません。大学に入ったらすぐに習うことですが($${e^{ix}=\cos x +i\sin x}$$というものを習うので、これを$${x=\pi}$$としたものだからです)、高校までには習わないものです。なぜ高校までには習わないのかも後述したいと思いますが、とりあえず、「式自体は知っていることばかり出て来る」のです。たとえば、$${\pi}$$というのは円周率であり、小数で表すと3.141592…と永遠に続く定数です。また、$${e}$$というのは自然対数の底であり、小数であらわすと2.718281828459…と永遠に続く定数です(理系は高校までに習います)。また、$${i}$$というのは虚数単位であり、2乗して$${-1}$$になる数です。そして「数の右肩に数を乗せる」というのは累乗であり、これも中学に入ってすぐ習っています。したがって主張することは理解できる(気がする)のです。実際に中高の教員になってみて、この式に興味を持つ生徒さんが非常に多いことに気づかされました。考えてみると、学生寮の後輩の新入生(すなわちついこのあいだまで高校生だった)でもいました。私の専門が数学であることを知って、この式の証明をせがんできたやつ!司書の時代も、この式の証明を高校生にも納得できるように説明するためだけと思われる本があり、よく借りられていたものです。教員時代のエピソードをひとつだけ書きましょう。オーケストラ部の顧問の仲間で、G先生という先輩の物理の先生がいました。ある日、その先生が、生徒から質問されたと言って、つぎのように言ってきました。この$${e^{\pi i}=-1}$$という式の両辺を2乗すると、$${e^{2\pi i}=1}$$となる。この両辺の自然対数を取ると$${\log e^{2\pi i}=\log 1}$$である。これは$${2\pi i=0}$$となって明らかにおかしい。これをどう説明するか?という問いでした。(皆さんならどうお答えになりますか?)私は「$${\log}$$は多価関数だから」と答えました。G先生は、そんな難しい言葉を出さずに説明してくれよ、と言いましたが、そういうわけにいかないからこれは高校までに習わないのです。多価関数とは、複数の値が出る関数のことです。高校までは、1つの値しか出ない関数しか習いません。でも、複素数まで範囲を広げれば、$${\log}$$は多価関数になります。だから、「右肩に虚数を乗せる」というのは高校までには習わないのです。しかし、$${e^{\pi i}=-1}$$という式は、なんとなく意味はわかった気になります。だから、理系の高校生のあいだで非常に「人気がある」式なのです。したがって、小川洋子さんという人はやはり非常に賢い人です。この「多くの人の興味を引く」式が「博士の愛した数式」なのですから!

 もうひとつ、蛇足を加えますね。ドイツ留学の長かったある友人の牧師さんの話です。少なくともドイツでは、「教授」というのは「学士」「修士」「博士」と同じようなもので、「教授」もいったん成ったら一生「教授」であり、墓にも「教授」と書かれる、ということでした。たとえば私は中学を卒業していますが、普通は私のことを「中卒」とは言いません。「中卒」とは「中学を卒業した」という意味ではなく「中学を卒業してつぎの学校へ行かなかった」という意味ですよね。(中卒のかたをばかにしているわけではないことをどうかご理解ください。言葉の意味を述べています。)同様に私はときどき「東大卒」と言われますが、それもちょっと違和感があります。「東大卒」というと、私には「東大の学部を出て院には行かなかった人」というふうに聞こえます。じゃあ私は「修士課程修了」というか。それも違うのは博士課程に行ったからです。でも「博士課程修了」と言ったら学歴詐称になります。やはり私はハローワークなどに行っても、「高卒」「大卒」などと記入するらんに、どう短くしても「大学院博士課程単位取得退学」の13文字を記入しなくてはなりません。おそらくすぐに「院卒」と書き直されてしまいますが。とにかく、その「博士」が教授だったら、彼を博士と呼ぶのは不適切で、あの本の書名は『教授の愛した数式』となるのかも。ドイツだったらね。そして、「工学博士」と「博士(工学)」の違いを教えてくれた工学博士もいるのですが、もうこの話もいいですよね。長い話でしたね。ようするに、売れる小説(小説に限らず、ツイッターのアカウントやYouTubeチャンネル、このようなnoteのフォロワー数などにしても)にはちゃんと秘訣があるのです。以上でした!

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