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イエスさまに嫌われる!

ある教会のツイートで「マザー・テレサはインドの貧しい人たちに奉仕をしましたが、彼らをイエスと見て仕えたのです」というものを見ました。これを見て思うのは、マザー・テレサが「インドの貧しい人」を支えていたと同じくらい、「インドの貧しい人」がマザー・テレサを支えていたのだろうということです。

もう少し身近な例を挙げますと、「自分は頼りにされている」と思えることが元気のもとであるということです。ある教会の牧師さんは説教がとても得意ですが、明らかに「聞いてくれる人」に依存しておられます。私はしばしばその牧師さんのお話を「聞きに行ってあげて」いました。教会のお説教というのは「ありがたいお話を聞かせていただく」だけのものではないと思うのです。お互い様の関係です。聞く人がいなければ説教は成立しません。私だって読んでくれる人がいなければ記事は書けないものです。

「私はあなたがたを友と呼んだ」(新約聖書ヨハネによる福音書15章15節)とイエスは言いました。イエスは友なのです。友達であるからには対等です。われわれが神の子イエスにあれこれお願いごとなどして「あつかましく」するのと同じくらい、神がわれわれに「あつかましく」してくることはあり得ます。

ザアカイという徴税人(ちょうぜいにん)の頭で金持ちであった人物が、イエスを見ようとして木に登ったという話が聖書に出て来ます(ルカによる福音書19章1節以下)。イエスは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている」と言いました。たとえばイチローなり宮崎駿なり(例がいまいちですか?)が自分の家に泊まりに来ることになっていたら大変です。「お前、宮崎駿と知り合いなの?すごいな!」という話になります。ところがここでは他ならないイエス・キリストが泊まりに来ることになっており、途方もない話であるわけです。このように、「救い主が泊まりに来る」「神があつかましくしてくる」ということはあるわけです。

ときどき「I love Jesus」というようなTシャツを着ている人がいます。「私はイエスさまが大好き!」というわけですが、イエスが友達であるなら、「イエスさまは私のことが大好き」ということも言えます。相思相愛です。さらに、「イエスさま大嫌い!」ということもあるでしょう。『僕はイエス様が嫌い』という映画もありました。これも、「私はイエスさまのことが嫌いだが、イエスさまが私のことを嫌いになることはあるまい」と思っているからこそ言える言葉でありまして、極めて「むしのよい」態度であると言えるでしょう。しかし、キリスト教の世界ではまさにこういうのを「信仰」と呼んでおり、やはり信仰の本質は「あつかましさ」であると言うことができるのではないかと思います。

そして、イエスが友達であって対等な関係にあるならば、「イエスさまは私のことが大嫌い」ということもあり得るわけです。「イエスさまから嫌われる」とはもう相当ですが、これも、「嫌われて1人前」というべきか、「嫌われるほどイエスさまと親しい」と言うこともできます。

「イエスさまは友達である」とは、そういうことだろうと思うわけです。「いつくしみ深き友なるイエスは」という賛美歌の絶大な人気の理由がわかる気がしませんか?

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