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「21世紀の女の子/20世紀の金子文子」

正直疲れた。
凄まじい映画を見ると頭の中がその凄まじさを言葉にするために働き始めるが、昨日の夜と今日の朝と、連続で凄まじい映画を見たからなおさら頭が、身体が疲れている。まあでも仕方ない。半分見るのは使命と感じていたから。

「21世紀の女の子」「金子文子と朴烈」

両映画にはかなりの共通点がある。女性が大活躍する。日本を超え世界を超え宇宙を爆破するのではないかとばかりに大活躍する。戦前日本の法廷で宇宙を破滅云々言ったのは金子文子だったか朴烈だったか。
でもなんか女性が大活躍とか書いている時点で違和感がする。タイピングしている手が居心地悪い。男性もたくさん活躍する。あの暗黒の日本統治の朝鮮から、日本に来た人々も活躍するし、日本人も色々な意味で活躍する。
というか「女性」「男性」「朝鮮人」「日本人」と分けて書くのもなんか心地が良くない。性差と民族の違いが、責任やけじめを明確にするときに必要なこともあるが、この両作品ではそんなものはまさに爆破されている。女が男になり、男が女になり、性別を超えた存在になり、韓国人が日本人を演じ、民族を超えた連帯が生まれる。
でもやっぱり、強くて孤独な人がいてこそ、越境も連帯もある。
私も強くて孤独で流されない「日本人男性」でいれたらと思う。

両作品のあらずしや舞台設定、作られた過程は、インターネットか、実際に劇場で見たりパンフレットを買ったりして確認して欲しい。
両作品の共通点と、最後に相違点を述べていきたい。

① 手掴み、手探りの思想
二つの映画の共通点の一つ目は、考え方や思想、哲学があくまで肉体を通して手さぐりで手掛かりに触れられ、手掴みでそれぞれにとっての答えや、次への問いが見つけられている、ということである。
「21世紀の女の子」のパンフレットを読むと文章もしっかりしているし、制作した人々の中には本を結構読む人もいるのかもしれないが、それは学術書や論文、辞書の分析により机上で思想ができたということを意味しない。あくまで映像の中で撮り、撮られ、空間を存分に使って、今まで生きて来たことの延長に作品を作るのが、答えを出す鍵になっている。
金子文子は、無戸籍者として小学校にも行けず、祖母の家に飛ばされて手伝いなどで酷使、虐待などを受け、誰にもまともな教育を受けていないところから、東京で自ら学び、朝鮮人アナキスト朴烈との出会い等を通して、自らの思想を形作っていく。最後は大逆罪での法廷で日本と朝鮮、世界に自らの思想を叩きつけ、貴重な自伝を残した。(『何が私をこうさせたか』)
色々な力関係や権力によって流通する言葉やイメージが偏り、人を縛ってしまう問題は後述したいが、有り体な言葉や考えに違和感を覚え、踏み込んでいく人たちのメッセージは強い。
② 視点変化、360度変化の性別、観客を見る映画
第二の共通点として、あらゆる意味でのボーダーレスについて語りたいのだけれど、難しい。
「projection」にて、一人の女性が風呂だか、風呂が巨大化した海だか、宇宙だかをカメラを手に泳ぎ、モデルの女性に接近していく。なんだか、カメラの女性もモデルの女性に観察されている気がするのだけれど、観客である私も見られている気がするし、視線が斜めからカメラ目線に切り替わるシーンなんてもろだ。観客を観る映画。
女性が男性みたいな(あくまで「みたいな」)身体になって女性とするんだけどあくまでそれはもう一つの精神的世界で、現実では男性としているとか、やっぱり女性だとか男性だとか分けて言っても言葉は居心地が悪そうだ。
でも映画ってそもそもAじゃない人がAを演じる行為だ。
韓国人男性の監督が日本人女性金子文子を掘り下げること。韓国人女優が金子文子を演じること。韓国人が時の日本の権力者達を演じること。別に問題はない。チェ・ヒソ(金子文子)の日本語がテクニック的には素晴らしいながらも、前半だけ、どこか身体の底から出てないような違和感はあったけど。(全体で見ると大した問題ではない)
他者に成り切ること。他者を掘り下げること。「21世紀の女の子」の男性描写に、私は好感を持った。(パンフレットじゃ男性がステレオタイプ化されているんじゃないかなんて言われていたけど、明確な理由を持って山戸さんも切り返していたしそんなにステレオじゃないと思う)
勘違いを突き付けられ葛藤する男(あの時の表情良かったなあ)。時が経て、変わってしまいマウンティング説教をかます男。暖かく見守る男(達)。なんか言い争う男。ラブホで誠実に頑張って愛を成就する男。いい線突くけどある線外してる男。
短編集なのに、男性描写が一つの意志を持つかのごとく、作品を経るごとに徐々に深まっていき、「セフレとセックスレス」で男性が一つの成熟を果たし、「reborn」で更なる前進と、同時に後退もしてしまう複雑な状態になる、という感じかなと私は思った。
しっかり男性を描けているからこそ、何でも枠組みや言葉、理屈で捉えてしまう(よう強いられてもいる)男性社会の限界みたいなのも、チラッと見えた気がした。
「21世紀の女の子」の女性監督の男性描写が良かったという話から、「金子文子と朴烈」での、韓国人監督の日本人描写にも好感を持ったという話に繋げたい。
かなり立体的な日本人像になっていたと思う。関東大震災直後の日本政府の閣僚のやり取りは忖度やらごまかしやら言いくるめにまみれ、「シン・ゴジラか?」というような感じだった。しかし「それはやりすぎだ」「日本は法治国家だ」といった「諫め」(結果的に諫めにならないわけだが)発言が随所に出ることで、一方的に日本人を滑稽で残虐な悪役と描かないようにしている。
それどころか、関東大震災後の朝鮮人虐殺を引き起こす最大のきっかけを作り、批判の目をかわすために大逆罪をでっちあげて金子文子や朴烈を起訴する「一貫した悪役」水野錬太郎ですら、かなり立体的というか、興味深い描かれ方をされていた。
天皇の権威や名誉をちらつかせて閣僚さえ脅して自分の意見を通し、巧妙に「陰謀」を進めていく様は、ただただ仕事を進めることに執念を燃やす人物に見えたし、だからこそ、終盤での独房の朴烈との一対一の迫真のやり取りができたのではないか、と思う。
(ただしパンフレットに寄れば、水野の役割は史実と異なる面があるという)
日本人は誰もが、天皇制の下で、自分の言葉を失い、「逆らうのかこの朝鮮人」的態度をどこかで取ってしまう危険性があり、そのボーダーが上手く描かれていただけでなく、ボーダーの中でもなお葛藤し、金子文子と少しずつでも交流する看守などが描かれるというのは、「善韓国/悪日本」の図式であったら無理だったと思う。
逆に多面的な図式だからこそ、当時の日本人が抜きがたく持っていた問題や限界もあぶり出されたのだ。
しかし忘れてはならないのは、捕まった金子文子や朴烈達を支援する日本人たちの存在だ。大逆罪に問うことの不当性を訴えて支援する弁護士布施辰治や作家の中西伊之助といった人物が登場したとき、過去に私自身が大学で学んだことを思い出し印象深かった。
もちろん朴烈達朝鮮人の運動家の揺らぎや裏切り、仲たがいも描かれる。一方的な善や悪を描くことがどこまでも廃されている。(金子文子と朴烈の「不逞」振りだけは清々しいくらい一貫していたが)
しかし、上手いがどこか違和感のある日本語を使って、韓国人が日本人の権力者を演じきったことは、何か深い意味がある気がするのだ。「他者を通して自分を考える」ということは「21世紀の女の子」でも描かれていたが、「金子文子と朴烈」において、韓国人が日本人の悪を成り切って再現することで、日本人糾弾を超えて、広く存在してしまう悪、自分たちも犯してしまうかもしれない悪と向き合っているように見えた。
今年の三・一運動100周年での文大統領の演説は「日本との友好強化はするが自分たちの中の親日清算は進める」という趣旨だったが、演説の是非はともかく、上に書いた「敢えて日本人に多面的に成り切る」ことと、深いところで繋がっているように感じる。
揺らぎ、と言えば日本人で男性である、映画を見た私自身の揺らぎも、後で書こうと思う。
③ 力を持っている言葉に苦しみながらもそれを投げ返す
この三つ目の共通点も、難しいのだけれど、重大なテーマだと思う。
言葉、イメージ、メディア的なものの流通、その他色々な情報は男性/女性なら男性、日本人/朝鮮人なら日本人がより有利な立場で動かしてきたと思う。(こういうことを言う際は敢えて分けた方がいいだろう)
強者の言葉やイメージで縛られた「弱者」は存在を決めつけられ、苦しみ、時に規定以上の呪いとなり、追い詰められていく。だけれど、二つの映画に共通するのは、決められた言葉やイメージを打ち破り、それを逆手にとって、自分たちの抵抗の文脈に奪い返すタフさと迫力だ。

馬鹿は賢い。弱いは強い。不逞日本人。男は女。女は男。男も女。偶然は必然。

こうやって「言葉を超えた言葉」を並べてみるとなんだか滑稽だけれど、手探りの思想と、どんな繋がりでもいいから、愛が、愛こそが新しくて強い言葉を作るのだ。だから見ている側としては、ジョーシキになっている言葉やイメージが食い破られた時は戸惑うしたまに痛いけど、言葉や概念を鎧にするんじゃなくて、生身の自己で見ないと、21世紀の女の子のことも、20世紀の金子文子のことも分かりはしないのだ。
それにしても金子文子は凄い。無戸籍者として小学校も行けず、祖母の家でこき使われ虐待で一回死のうと思う悲惨な青春。だけど快活でよく笑い、朴烈の詩に惚れたからっていきなり初対面の彼に求愛し、不正は頑として許さず、はっきりと、平易に、誰も言えなかった自分の言葉を話す。これこそ、押し付けられた諸々をボロボロに食い破った鮮やかな例だ。「お前は無戸籍者だ」という愚かなカテゴライズを何千倍にもして返したのだ。
④ 思想をどれだけ肉体化し、実感として理解しているか
だんだん二つの映画から突き付けられた問いが、私の喉元に迫っている気がするが、迫られてこそ文章は進む。
二つの映画は多分、実験映画なんじゃないかと思う。これは「21世紀の女の子」を見て特に感じた。15個の実験。既成の言葉、既成のイメージ、既成の概念じゃ物足りないし、時に窒息しそうになる。だから映像で新しい言葉やイメージ、概念を紡ぐ。そのためにどこへでも歩く。どこへでも泳ぐ。どこへでも飛ぶ。どこかでハグする。どこかでセックスする。更にどこかで新しいセックスを試みる。どんな壁にぶち当たっても、実験道具にして調合してしまう。15個の原理。15個の宇宙。こんな空間が、作れるかもしれないという希望。
まあでも、こじつけかもしれないけど、金子文子がやっていたのも実験だ。
おでん屋で、路上で、牢屋で、法廷で、手を目いっぱい広げて、人に触れ、法に触れ、言いたいことを言い、本当のことを言い、どんな権力も自前のフラスコに引っ張り込んで、調合してしまったのかもしれない。だからあんなに笑ってて、美しかったのかもしれない。
―たわむれか   はた真剣か   心に問えど   心答えず   にっとほほ笑む(金子文子)
⑤ 日本人男性の葛藤
やっぱりでも、私自身の中で、違和を覚えてしまうこともあった。
「21世紀の女の子」で、珍しく、世間一般でイメージされているんじゃないか、というセックスが描かれた(と私は思っている)シーンがあって、何か、映画で描かれる美しさや諸々に引き込まれていた私の身体が、ステレオタイプな反応をしてしまった気がしたのだ。女性をモノ扱いするようなシークレットメッセージがあらゆる場所で舌を出して待ってて、それは男性の尊厳も棄損してしまう気がする。(映画の描写自体を難じたい訳ではない。念の為)
後、金子文子が堂々と意見し、戦うシーンでも変な後ろめたさというか、恥ずかしさを覚えたし、「金子文子と朴烈」は冒頭から人力車夫をしていた朴烈が日本人客から金もろくに払われず、蹴飛ばされ「この朝鮮人が!」と罵られるシーンからのスタートで、見ていてつらかった。何でつらいかって、今も似たような言葉を、度々見かけるから。
自分の中で、映画が付きつける問いに答えを出せる面だってある。でもまだ、出せない面もある。出せない面が疼くときは、なんだか自分自身も失われていくような気がする。身体と思想の統一は、口で言うほど簡単ではない。
⑥ 相違
二つの作品の相違を最後に書きたい。「21世紀の女の子」は個人と、個人と個人の関係から一気に宇宙や哲学に飛び、社会への戦闘態勢に入っていくのに対して、「金子文子と朴烈」は、具体的な歴史、社会を入り口に、個人、個人と個人の関係、哲学を一気に描き切る、という違いがある。
どうしても日本のメインストリームの映画は個人と哲学は描いても、なかなか社会を描いてこなかったのではないか。いや、社会を描き切った映画もたくさんあるのだ。あるのだけれど、どこか陽がなかなか当たらない、日陰の名作という気がしてしまうのだ。
「21世紀の女の子」はしっかりと社会を見据えるスタートに立った、と感じられるラストだった。それはパンフレットを読んでも強く感じた。あの哲学があれば、どんな具体的な問題にも、切り込んでいけると思う。
金子文子については、約100年前に、ああいう人間がいたことを、忘れないようにしたい。彼女が笑い、戦うことでぶち破った壁が、今また生まれているのだから。

さて、ここまでほぼ同時期に見たというだけで、一見なんの繋がりも無さそうな二つの映画について書いてきた。
日韓関係が冷え込んでも、性別による差別がなかなか改善されなくても、表現は苦しいからこそ出てくるし、それは確かな現象になる。
植民地支配の問題と、ジェンダーの問題が、全く切り離される別問題とは考えられない。
磁石のように引き寄せてくる言葉やイメージに揺らぐ自分を見つめながら、どの方向へ歩いていくかを決断する、という問題だと思う。

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