在る(20191026/寿歌/SPAC)

(文章を書くことのリハビリがてら、観劇記録も兼ねてつらつら書いている取り留めのないもの。何か思いついたら書き足したり消したりするかも。"文字に起こす"ことに注力しているので文章としての完成度や劇評としての価値はありません。)

 開演前、劇場に入ったその瞬間から、私は既に寿歌の中にいた。舞台上に散らばった無数のプラスチックゴミからは異様な雰囲気が放たれ、その上に作られた木製のメビウスの輪のような舞台装置は、歩き続けても抜け出せない息苦しさと同時に、愛着を覚えてしまいそうな懐かしさを私に感じさせた。

 核戦争が終わり、その地が取り返しのつかない程に廃れてしまった頃、ようやくヤスオ(神)は現れた。しかも、信仰心の深いキリスト教徒や今にも死にそうな幼子の前ではなく、ヤスオの能力を不便だと呆れるキョウコと、それを見世物にしてしまうゲサクの前に。平穏のためだったはずの信仰が引き金となって戦争が起こるような人間の抱える矛盾と、その信仰の対象さえも役立たなくなってしまうこの世界の惨さたるや。しかしそれに対してあっけらかんとした台詞回しと喜劇的なやりとりで寿歌は進む。

 余り物のミサイルが飛び交うなか、「ええ加減」に歩みを進めるゲサクは、決してその生き方に誇りがあるといった風ではない。「間違い」で死んでしまったゲサクが生き返ることもヤスオの気まぐれに過ぎず、またそれもひとときの話で、一瞬の信仰に応えてゲサクを生き返らせた後、ヤスオはいなくなってしまう。

 これは未来の核戦争の話。本当にそうだろうか。制御不能になったコンピューターがありったけのミサイルを人に向ける。それに怯えつつも、「ええ加減」に芸をして日銭を稼ぐことでしか、そういう風にしか、生きられない自身に、ゲサクは葛藤と諦めと、ほんの少しの愛情を向けているように見えた。私は今現在の自分を写されているようだった。

 死を目前に感じながらゲサクが話す、人食い虎や主人のために火に飛び込む兎の話は、それぞれ人間が繰り返していく普遍的な生き方の決まりごとのように感じる。ただ自分の生きるように生きるしかない。何かを信じてみようと思っても、誰かのためになりたいと思っても、上手くはいかず、何かを成せたとしても「その程度」。その静かな葛藤のなかでみんな、生きている。そうやって人間は繰り返してきたのだろう。芸人であるゲサクもそう。命をかけて人を笑かすことで生きている。生き返ったことすら、人を笑かす材料にして、そうやって一瞬一瞬の自身の価値を見出しながら、生きていく。自分の快と不快に素直で幼子のようなキョウコも、蛍の子を孕んだと思うと、次の町への気持ちを強くする辺り、やはり人は、誰かの役に立つだとか、自分の使命のようなものに敏感なのだろう。

 ヤスオは櫛をキョウコにくれたが、あれは元々はキョウコが持っていたものだ。あれはきっと、生きていく気持ち。それは信仰の結果でも何でもない。ずっとキョウコ自身が持っていたものだ。他人や神から貰うものではなく、わたしたち自分自身がそれぞれ持っている。去って行ったヤスオを追いかけたキョウコには結局その姿は掴めず、あれは幻だったのだと言った。きっとキョウコにとってはそれが真実なのだ。

 この「寿歌」という作品は、決して確信めいた何かを投げかけてくるものではなく、ただそこにあった。そこから観客が何を受け取るか、その受け取ったものこそが現在の鏡だ。

 死者や死後の世界の何かを感じられるほどの信仰は私には無いが、これまでそうやって繰り返してきた人間と歴史そのものに思いを馳せることは出来る。キョウコに群がったあの蛍が、死んでいった人々の思いが押し寄せたものだとしたら、その「思い」の望むことは、廃れた世界をもう少しだけキョウコとともに生きていくことだったのではないだろうか。そうであるならば、この写し出された世界を今現在生きていることも、生きた先人たちのことも、そしてこれから歩んで行く道も、寿ぐことが出来るかもしれない。人間の単なる悪意や善意を越えた、たくさんのもので視界の悪いこの世界の、モヘンジョダロへ向かう道程を。

 放射線を含んだ雪の降るなか、ゲサクとキョウコはモヘンジョダロへ向かう。我々はどこへ行こうか。自分の生きるようにしか生きられないこの身体を引き摺って。