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”排除しない”場づくりは可能か

いくつも”居場所”を失ってきた。
そこに居られなくなったり、そこに居たくなくなってきた。

だからこそ、自分が開く場や関わる場では
誰かを「排除」したくないと思ってしまう。
現実的にそういうことは難しいのも分かる。

正直に言うと
これまで苦手だな、と思う人や子もいた。
でも「来ないで」とは言いたくない。
私がその相手を理解しようとする気持ちがある限り。

その思考はある意味危ういのだと思う。
限界の限界まで相手を理解しようと努力したことで
モラハラ野郎から20年以上も離れられなかったし
パワハラの被害も招いてしまってきた。

私の中には差別意識だって存在している。
「分からないもの」は不安だし怖い。

ある「子どもの居場所」の立ち上げから関わった。
その代表者の娘さんは、知的障害を伴う自閉症と思われるお子さんだった。
場の運営などの話し合いで、気持ちがこもって喋ったり
普段よりも大きな声で喋るだけでも、その子は
自傷行為や奇声を上げるなど不穏になってしまった。
母親はそのフォローにまわり、話し合いをするにも
気を使う必要を感じた。

そういう姿を見るうちに、私はその子のことを
どこか苦手だと思う様になってしまっていた。
嫌だな、怖いな、と。

障害のある人や子に、配慮が必要なのはわかる。
合理的配慮だ。


自分の許容量を超えてしまうと「排除」が起こってしまうのだろうか。
「来ないで」「出てけ」と面と向かって言うというよりは
来れないようにするほうが、すごく嫌な感じがする。

県内に、興味を持っていた場があった。
そこに「行っていい」対象年齢は38歳まで、とされていた気がする。
最近は確か40歳までと対象年齢が引き上げられていた。
店主や関係者がその年齢を超えてしまったからだろうと推測する。
どちらにせよ、私はそこでドアを閉められたことになる。
「来るな」と。

排除しない。
誰もそれで悲しい想いはさせたくない。

でも、困った行動をする相手や問題点には
向き合って話をしたい。
この点でこう困っているということは伝えないと分からないし
それを受け入れてくれるかどうかもまた分からない。
互いが自分のことばかりを考えていたら、話し合いは決裂するだろう。


人生の多くを人に拒絶され、否定されてきた原因は
私にもあるのかもしれない。
しかし
犬の集団の中に、猫が一匹紛れ込んでしまったような苦しさ。
自分以外のそんな猫がいたら、私はその猫を責めようとは思わない。
大変だったやろ、ちょっとこっちにおいで。
そう伝えたい。

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