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「十九歳の地図」における足のモチーフ

中上健次(一九四六 - 一九九二)の「十九歳の地図」について。

名ばかりの予備校生をやりながら新聞配達のアルバイトに勤しむ「ぼく」は、あるいは公衆電話のダイアルを回し、「地図」にメ印を記しておいた配達先の家々に悪意ある電話を仕掛けている。


1.天使論?

突如として他所よそからやってきて、それを受け取る者に衝撃を与える。それは聖なる要素を持てば、天使と呼ばれうる。彗星がそのようにふるまった頃もあった。山を越え、跳ねてあるいは片足を引きずってやってくる兎も、旧くはそんな風でありえたろう。

電話が掛かってくる。耳慣れない若い声色が、突飛なことを言う。それが俗な声色であれ、strangerからの電話は心を惹く要素を少なからず持つ。それゆえに、電話が切れるやいなやまた鳴り出すと、同じ人物からのコールと知りながらも、また受話器を取ってしまう。内容如何によっては、天使の声ともなりうるだろうか。

「ぼく」はルームシェアで狭々しい部屋に居ながら、こんな風に感じている。

ぼくは完全な精神、ぼくはつくりあげて破壊する者、ぼくは神だった。世界はぼくの手の中にあった。ぼく自身ですらぼくの手の中にあった。

[以下では一々断らない] 中上健次「十九歳の地図」

増上慢をものとする「ぼく」の堕天使ルシファー然とした態度を見て、この作品に天使論を読み込んでみたいと思ったのである。

「うよく、のかた、ですか」
「はい、左翼、右翼と言えば右翼です」

右翼に涙はいらない、(…)

と翼に言及してくれるのがリップサービスにも思える。もっとも、天使だからといって有翼童児キユーピッドみたいに翼を持っている必然性はないのだが。

とまれマリア様と電話越しでの邂逅を果たす「ぼく」なのだから、天使を引き合いに出してそんなに大げさでもない。

果たして「ぼく」は(堕)天使なのか。

2.犬なのだ

「ぼく」はしかし、犬なのだ。

茶色の犬はぼくが近づくと歯を剥きだしにしてうなり逃げだそうともしなかった。ぼくは走るのをやめ、四つんばいになり、ぐわあと喉の奥でしぼりあげた威嚇の声をあげた。

「ぼく」はこう言っている。

おれは犬だ、隙あらばおまえたちの弱い脇腹をくいやぶってやろうと思っているけものだ。

思春期特有の屈折、憂鬱を感じる。であるからして、天使、犬ときて、クラナッハあるいはデューラーの『メランコリー』、そこに横たわる犬と悩ましくある天使とを思い出してもおかしくない。しかしここでは犬と天使が溶けあっているようであり、絵画の系譜は残念それほど参考にはならない。

3.前足、後ろ足

畜生に手はない。たかだか前足と後ろ足としかない。ゆえに「手」の描写、「足」の描写はそれぞれ注目に値するだろう。

「十九歳の地図」においては前足と後ろ足とが対比的に描写されている。

冒頭の表現に注意すると、後ろ足に焦点が当てられていることに気づく。第一段落から。

(…)一度集金にいったとき、その家の女がでてくるのがおそかったので、ぼくは花を真上から踏みつけすりつぶした

[太字引用者]

(…)、老婆が頭にかさぶたをつくったやせた子供をつれてでこぼこの土間にでてきた時も、ぼくは胸がむかつき、古井戸のそばになれなれしく近よった褐色のふとった犬の腹を思いきり蹴ってやった

[太字引用者]

それに続く「サーカスの綱渡り芸人のようにふらふらし」という箇所も、元の覚束ない様子を思わせるだろう。冒頭の描写は後ろ足に固執している。

その続きにも後ろ足の描写は都度、現れる。「ぼく」は、後ろ足なくしては外の世界と関わりあえないかのようなのだ。同居人の紺野ともそんな風である。

ぼくはいま不意に立ち上がり、紺野の顔を足で蹴りあげ、「うそつきやろう、インチキやろう!」とどなり出してしまうのではないかと恐れた。

[太字引用者]

 ぼくが紺野の言葉の揚足をとろうとして言うと、(…)

[太字引用者]

(…)くるぶしを、「よお」と蹴ってやった。「よお、おれの集金帖みなかった?」もう一度足で蹴ると(…)

[太字引用者]

あるいは見知らぬ連中にふっかけて、

「(…)こんなガキに足元をみすかされるなんてくだらねえよ」

とか言われている。ほかの集金箇所でもこんな風だ。

軒下にブロックのかけらをおいてふちどりした花壇がつくられ、そこに貧弱なキンセンカの苗が植えてあり、夏に咲いた花の種がおちて育ったのだろうと思える一本をぼくは踏みつけてしまった

[太字引用者]

「ぼく」は自分の後ろ足を誇りつつ、花々を踏みにじる。

おまえたちはきたない、おまえたちはおれのように素足で草の茎がやりのようにつきさす野原をかけることのできる体ではなく、肥満していて、ぶくぶくの河馬かばのようで、いやらしくしみったれている。

[太字引用者]

「ぼく」は「荒い息を吐きながら走っているぼく自身が好き」だ……

交流の媒介が後ろ足に限定されていることは、それがどういう意味をもつにせよ、興味深い。他方、前足はどうだろう。こちらは言わば「独白する理性」を体現している。

ぼくの快楽の時。(…)ぼくは一度引き抜き、生活につかれて黒ずみ、荒れはてた女の性器をでひろげて一部始終くわしく点検し、また女を乱暴におかす。(…)けだもの。人非人にんぴにん。そうだ、ぼくは人非人だ、何人こので女を犯しただろうか、なん人こので子供の柔らかいはとのような骨の首をしめ殺したろうか。

[太字引用者]

あるいは先に引いた箇所、

ぼくは完全な精神、ぼくはつくりあげて破壊する者、ぼくは神だった。世界はぼくのの中にあった。ぼく自身ですらぼくのの中にあった。

[太字引用者]

もそうだろう。

……

「ぼく」は後ろ足で駆ける。前足でもって、新聞を四つ折りにして郵便受けに放り込む。また駆ける。部屋で地図にメ印を刻む。駆ける。公衆電話の扉を押す。受話器を握る。ダイアルを回す。吠える。

4.犬の精神

電話ボックスで吠えて、四本しほんの足は満ち足りる。硝子に自分の姿が映る。「犬の精神がかけめぐる」。その奔走の極北においてのみマリアは召喚されうる。彼女の恩寵の声だけが前足をへし折ってくれる。

とうとう電話ボックスのそばで、犬は後ろ足で立ち尽くす。「白痴」の犬が声を出さずに泣いている。

5.おまけ

次のnoteに作家の年譜がまとめられてあって(ソースは不明)、そこにこう書いてある。

1973年 27歳。次女・奈穂が誕生。夜勤で足を負傷、入院中に近隣の喫茶店で「十九歳の地図」を書く。妻が清書し「文藝」に、初めて芥川賞候補に。

飛躍するが、足の負傷が事実であれば、作家には自身を「雑賀孫市」(『枯木灘』)にアイデンティファイする機会が与えられていたことになるだろう。戦に敗れ、撃ち抜かれた片足を引きずって紀州にたどり着いた者であり、鉄砲の使い手である。

「爆破なんて甘っちょろいよ、ふっとばしてやるって言ってるんだ、ふっとばしてやるんだよ」

「爆破」とは言い難く、そして辛うじて「ふっとばしてやる」と言いうるもの、それこそ砲ではないか。「ぼく」は雑賀孫市なのかもしれない。雑賀さいが踊めいた、常に足に意識を置いた執筆であったのか。

作家がいつから雑賀孫市を意識していたかであるが、盟友(?)柄谷行人が、

 しかし、孫市について言及した二ヵ所において、中上が孫市のことをその場ではじめて聞いたかのように書いているのは虚構である。私は六〇年代の末に中上に雑賀孫市について教えられ、司馬遼太郎の『尻喰らえ孫市』(新潮文庫)を読んだ覚えがある。

柄谷行人「被差別部落の「起源」 「日本精神分析」補遺」(『批評空間』第一期終刊号所収)

と述べており、1973年、「十九歳の地図」執筆時点で雑賀孫市は作家の視野に入っていたと考えてよいことがわかる。

雑賀孫市はマリアとの接点を持ちうるのだろうか。当時、キリシタン大名とかがいたはずだが、どうなのだろう……


さて、作中の「メ」を数えるのは面白いことだ。それは「ぼく」の書いた「メ」でなくて、中上健次の書いた「メ」だ。「地図」の「図」、「胸」、「脳」、「区域」の「区」、「ぼくには希望がなかった。」の「希」、「殺」!

天「使」の「メ」から涙が溢れているのか?


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