三四三

さしみ。よろしく。

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最近の記事

春啖呵

泣いてきたばかりだ。 涙が在った。意味のない涙だった。「光」みたいに、そこには意味がなかった。唯、在るだけだった。だから、神はこれをみて、よしとされるだろう。 しかし、「涙」の前に「泣く」と書かざるをえないのはどういうわけだ? 「涙」が溢れると同時に「泣く」ような、そんなふうに書けないのはどういうわけだ? 泣きたくなる不都合だ。 涙が溢れた。意味のない涙だった。「光」みたいに、そこには意味がなかった。唯、在るだけだった。だから、神はこれをみて、よしとされるだろう。

    • 重度の吃音について

      「我思う、ゆえに我在り」と言わざるをえない地点にまでデカルトを追い込んだのは「お前は何者だ」という問いでした。それは「私は何者か」という自問とは似て非なるものです。「私は何者か」という自問はモンテーニュの「我何をか知る」Que sais-je? の亜種(我に就きて我何をか知る)とならざるをえないのであって、「方法的懐疑」を繰り出してみたところで自問が自問である限りは『エセー』を一歩も出ることができません。コギト(自己意識)よりもむしろ、「お前は何者だ」と執拗に問いかけられるこ

      • 不゜倫をばらまけ 備忘録

        不謹慎な話題をまた一つ、2023年に置き捨てておこうかと思います。 それはプリンの話です。いずれは海よりも深く考えてみたい話題の一つなのですが、ここでは軽めに書き散らしておくことにします。 『ふしぎ・プルプル・プルリン・リン!』というのは、懐かしや、アニメ版『N・H・Kにようこそ!』における作中作『へんしん魔法少女ぷるりん』のオープニングです。とりあえず頭を空っぽにして聞いてみてほしいです。(こっちも良い) サビに「魔法少女(ショージョー(*‘∀‘))」というリフレイン

        • 四という漢字

          「四」という漢字の象形はまるで、縊死を選んでぶら下がった者の足を、窓から見ているかのようである。その足は、苦しんでいる最中の躍動さえ感じさせるのだが、それこそ「死」の足であるというのが実に興味深い。 そういえば夢十夜の第「四」夜は賽の河原みたいな風景だったなと思い出した。そこで、十夜読み直すと、どの夜(の夢)も「死」の気配が充満しており、別に第「四」夜だけに限った話ではないのだなと、このとき始めて気がついた。

          寒山○得

          昨日からトーハクで「横尾忠則 寒山百得」展が開催されている。 その展の内容とは関係ない話で恐縮だが、「寒山百得」と言われてみて初めて、「寒山拾得」の「拾」が数字であることに気が付いた。 それについて、夢「十」夜(とくに第六夜)の影響いろ濃い芥川龍之介の『寒山拾得』は、タイトルにすでにその引喩を忍ばせていたということになる。

          寒山○得

          中上健次『岬』『補陀落』における人称、視点のこと

          『補陀落』:1974年4月初出 『岬』:1975年10月初出 『岬』において「彼」は絶え絶えに視線を感じている。『補陀落』をヒントに、その視線について考えたことを書いた。 1.『補陀落』の視点 『補陀落』は次のように始まっている。 第一文には「、と姉は言った」と地の文が辛うじて有る。続く第二文とそれ以降には姉の語りが延々と書き連ねられてあり、地の文は見当たらない。 むしろ姉の「口調」が語りのモードから明らかに逸脱して地の文めいたものになっていく。 といった風である

          中上健次『岬』『補陀落』における人称、視点のこと

          ミャンマーとニジェール、蛸の手

          ミャンマーにて起こった2021年の国軍によるクーデター、その背後にはロシアが見え隠れしていた。ロシアによる軍政支援があった。 そして今年、ニジェールでも国軍によるクーデターが起こり、そこでは民衆によりフランス大使館の看板が破壊され、代わりにロシアの国旗が掲げられた。 二つともロシアの影があるが、ミャンマーについての報道では民衆はいかにも封殺されているように感じた。ロシアを称揚する(たとえばウクライナ侵攻支持)のはあくまで国軍であって、民衆という感じはしない。 一方で、ニ

          ミャンマーとニジェール、蛸の手

          夜こい

          夜と書いて「よさ」と読む記述を見つけた。 山賊の火を囲む処にフンドシもせずノコノコやってくる男というのは、その図体といい相貌といい、眼に浮かぶようで面白い。状況が少し違えば、鈴ヶ森である。 閑話休題。夜と書いて「よさ」という。それで思い当たったのが、「よさこい」である。よさこい節は夜よ来いと唄うのだったっけ。「よさこい」のことを調べると、そうではない。夜に来いというのだそうだ。 「夜さり」は夜分、夜という意味を持つ古語で、こういう言い方は今には伝わっていないが、夜さりこ

          日米における起債についての二つのニュースに関するメモ

          日米の市場の違いについてよくわからない箇所があったのでメモ。 分かり次第、更新する。 一見矛盾しているような二つの記述を見つけた。 まず9月5日、JFEホールディングスが資金調達を行ったことについての記事から。 市場金利の上昇(⇔国債利回りの上昇)→社債利回り見劣り→社債利率引上げによりカバー、というプロセスを踏むことを躊躇させるほどには、現在の市場金利は高い水準にある(7/28~で特に)。 高すぎる市場金利は社債発行が見送られる原因になりうる。このことは理解できる。

          日米における起債についての二つのニュースに関するメモ

          ランボルギーニによる詩

          失言のランボルギーニことジョー・バイデン(一九四二 -     )米大統領は、数々の失言と看過しえない言い間違いとで世間を驚かせ、その職務遂行能力に疑問の声が挙がりすらするのだが、なかには、考えさせられるスピーチもあって、それについて一文書きたい。 1.あなたたち/お前らを忘れることは絶対にない 2022年8月1日。国際テロ組織アルカイダの最高指導者アイマン・ザワヒリ容疑者を殺害し了えた旨のスピーチ。 対テロ攻撃の成功を寿ぎつつ、テロ被害者の追悼も須くなされる。そこでグ

          ランボルギーニによる詩

          「十九歳の地図」における足のモチーフ

          中上健次(一九四六 - 一九九二)の「十九歳の地図」について。 名ばかりの予備校生をやりながら新聞配達のアルバイトに勤しむ「ぼく」は、あるいは公衆電話のダイアルを回し、「地図」にメ印を記しておいた配達先の家々に悪意ある電話を仕掛ける。 1.天使論? 突如として他所からやってきて、それを受け取る者に衝撃を与える。それは聖なる要素を持てば、天使と呼ばれうる。彗星がそのようにふるまった頃もあった。山を越え、跳ねてあるいは片足を引きずってやってくる兎も、旧くはそんな風でありえた

          「十九歳の地図」における足のモチーフ

          災いと芥川龍之介 第七章 !

          この章の魅力:世界の詩的構造 という風で、睡蓮は遠のくキスを心待ちにしたままで居ます…… 『春の心臓』、愛蘭土の詩人イェイツ(一八六五–一九三九)の作。 二人は、湖水のまん中の小さな浮島のような地点に二匹の水鳥のように寄り添って坐っているのでした。春に抱き留められて、詩人が秘儀を語り出します。聴く者に永久の命を授ける春の歌、不死の精霊たちの歌が天を震わせるその瞬刻が明日に迫っている、と。古よりこの地に永らえる神々に憧れ八十に亘る春秋を蔑してした己の戒行もようやく報われよ

          災いと芥川龍之介 第七章 !

          災いと芥川龍之介 第六章 金魚あなたぁ

          この章の魅力:速度 『沼』は女の右眼に他ならず、イエスの言に従うかのように抉り出された。 無論、その右眼は魚を泳がせている。「第一夜」、『沼』を引き継ぐ作と知れる。 「鮮」を半分宛にする手捌きで「撲滅の賦」には魚が、「エピクロスの肋骨」には山羊が見える結構。 「賦」は夢を辿っている。 第一夜より「一週間」を経た第八夜に、凝と眼の中の小魚を見詰めていた自分が金魚売になって現れたように、 眼の中の「熱帯魚」も何時の間にやら「金魚」に姿を変える。そしてとうとう女が眼を睨み

          災いと芥川龍之介 第六章 金魚あなたぁ

          災いと芥川龍之介 第五章 マジ死にそう literally dying

          この章の魅力:病者の光学 女が男の死を告げる不気味な幻像は、翳みながらも、夢の裡に辛うじて在り得ました。その二重写しも女の眸の奥に「鮮」に見えた男の像と同じく、崩れてゆく。『沼』の底から聴こえてくる曲に誘われて入水した男の持物attributeは、暗澹たる沼に的皪と「鮮」な莟を破った「玉のやうな」睡蓮の花。 女の眸に溺れた男はいつまでも「鮮」であり得たということ。片や女の眼の外に取り残され、「鮮」たり得ない男。 「鮮」! 「鮮」であるならば死ななければならない。芥川氏

          災いと芥川龍之介 第五章 マジ死にそう literally dying

          災いと芥川龍之介 第四章「訳が分からないよ」

          この章の魅力:翻訳で翻弄 Oh summer sunset、晩夏の黄昏、ひっそりと沼を閉ざす芦の匀が漂う中、枝蛙の色褪せた声が跳ねると、空に星は瞬き、秋がかすかに目を醒ます。夢現の「おれ」はいつまでも独りで沼のほとりを歩きながら、水底から絶え絶えに漂ってくる曲に耳を傾ける。 水底から漂ってくるのはInvitation au Voyageの曲。「おれ」は水底に咲く「スマトラの忘れな艸の花」に憧れ、 と思う。このままほとりで「待つて」いても仕方がないが、 身を投げるとその

          災いと芥川龍之介 第四章「訳が分からないよ」

          災いと芥川龍之介 第三章 この期に及んで本を読んでいる奴がいる

          この章の魅力:橋と書くめえ 晩秋の色にその頁が染まってゆくのはロープシン(一八七九–一九二五)の『蒼ざめたる馬』(一九〇九)の英訳です。絶えず降りかかる銀雪を散りばめたような文体を、主人公のニヒリズムが曳いてゆきます。革命の浪漫にいかれた者たちは挙って読んで、気骨稜稜たるを誓ったと聞きます。「自分」はどうでしょうか、読書に熱が入り、電車は「橋」の上にさしかかります。事が起こりそうです。 「橋」の向こうから何者かが来ます。 「自分」はこの風狂な身なりをした二人が思い出せな

          災いと芥川龍之介 第三章 この期に及んで本を読んでいる奴がいる