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中上健次『岬』『補陀落』における人称、視点のこと

『補陀落』:1974年4月初出
『岬』:1975年10月初出

『岬』において「彼」は絶え絶えに視線を感じている。『補陀落』をヒントに、その視線について考えたことを書いた。

その眼を、視線を、焼き尽くしたい。

『岬』


1.『補陀落』の視点

『補陀落』は次のように始まっている。

 あんなにはやく若死にしなくっても、と何遍なんべんも何遍も思う、と姉は言った。夜半、二人の子供らの布団かけなおして、それっきり眼がさめて、あの人は仕事に出かけてるし、明け方にならんと帰ってきえへんから、ああもしてたな、こうもしてたな、生きてたら、もうええおっちゃんやな、と思う。(…)

中上健次『補陀落』

第一文には「、と姉は言った」と地の文が辛うじて有る。続く第二文とそれ以降には姉の語りが延々と書き連ねられてあり、地の文は見当たらない。

むしろ姉の「口調」が語りのモードから明らかに逸脱して地の文めいたものになっていく。

わたしは、夜の冷たい暗がりによこたわってわたしのおらぶ声を耳にして眼をあけおきあがろうとする兄やんの気配を感じとめている。ぴしぴしと草の折れる音がし、兄やんの鼻からもれる息のぬくもりがわかる。鳥がさっきまで鳴いていたのに、急に夜の暗闇に石が投げつけられるように声が吸いこまれてきこえなくなってしまい、ただ兄やんの息の音だけがはっきりきこえる。

『補陀落』

といった風である。これは小説の書き方の標準から少し逸脱しているように見える。

小説それ自体を崩壊させかねない姉の饒舌が『補陀落』の魅力の一つであろうか。そこに作家の戦略を読み取ってもいいと思うし、作法を弁えないただの若書きだ、という評価もありうる。

再びその第一文をみてみる。誰の姉かを明示せず、ただ「姉」とだけ書く記述の感触からして、「私」の姉が語っているように思える。事実、この作品の中頃で次のような叙述が差しはさまれる。

姉は眼に涙をふくれあがらせ、応接間の暖炉を模した棚の上においてある黄ばみしわのよった兄の写真をみた。兄は上半身裸、だぶだぶのズボン着て、笑っている。いまのぼくと同じくらいのとしか、それともひとつか二つ下か、二十一、二であることはたしかだ。

[太字引用者]『補陀落』

「私」ではないが、「ぼく」すなわち一人称の視点が隠れていたということがわかる。この後で「おれ」という呼び方も出てくる。

おれには全然ないな、おれはずっと他人の顔色うかがって、それでここぞと思ったとこで甘えてぬくぬくときたから。そう言ってぼくはへっと声を出してあざけった。

[太字引用者]『補陀落』

とまれ、一人称ではある。

2.『岬』の視点

『岬』の冒頭をみてみる。

 地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。
 が、肉の入った大皿を持ってきた。

[太字引用者] 中上健次『岬』

第一段落で三人称単元の小説と分かるが、第二段落では『補陀落』と同様「姉」と書かれており、「ぼく」の視点がまだちらつく。(試しに「彼は、」の部分を消して読んでみればよい。)

しかし「彼は、」というのが決定的で、読み進めるにしたがって三人称単元の小説として彼=私という約束を受け入れざるを得なくなっていく。その裡で「ぼく」の視点が翳んで忘れられてゆく。

「彼」=「ぼく」というのは内容のレベルで正しい。『岬』の「彼」が『補陀落』の「ぼく」であることは読めば明らかだ。けれども、「ぼく」だけが封殺される。もう「獣のにおい」を発している『補陀落』の「ぼく」が。

「ぼく」は「彼」に先んじている(そして『補陀落』の初出は『岬』のそれよりも早い)。予め「ぼく」はそこに居る。「彼」はそのことに気が付いている。

おれの顔は、あの男の顔だった。世の中で一番みにくくて、不細工で、邪悪なものがいっぱいある顔だ。彼は思った。その男が、遠くからいつもみている。

『岬』

「ぼく」がみている。不気味にも、「あの男」として、「彼」をみている。「遠くから」というのは、ここでは未来からということで、時間的な謂いとして読める。その「ぼく」を「彼」は赦せない。

その眼を、視線を、焼き尽くしたい。

『岬』

視線を焼き尽くすのは「彼」である。無論、これは実父への反抗である。しかし、三人称客観描写の文体そのものが反抗されているとも読みうる。

3.決着?

彼は歩いた。その男と出会う事を、願った。姉に、死んだ父さんがあるように、彼にもある、人間だから、動物だから、雄と雌がある。雄の方の親がある。その雄と決着をつけてやる。

『岬』

叙述からなめらかにおらびが導かれる。三人称客観描写が、「彼」=「ぼく」の規則が、この迫力ある文を可能にしている。「決着をつけ」るにはしかし、「彼」≠「ぼく」がせめて必要ではないのか。威勢とは裏腹に反抗の失敗が暗示されているようにみえる。

これでは精々「メランコリック」な解決しかない。「ぼく」を抱え込んで堕ちるしかない。実際そうなった。海を突出してためす岬となった。

いま、あの男の血があふれる、と彼は思った。

『岬』

「あの男」との決着は、「彼」=「ぼく」の規則との決着でもあり、ということはそれはメタレベルでの決着であらざるをえない。そのことが『補陀落』と『岬』の間に読み取れる。

果たして、『枯木灘』(1977)で中上健次は人称代名詞を捨てた。そのように中上健次に強いたもの、それは『岬』の冒頭からすでに潜在していた視線の問題であり、視点の問題でもあろう。


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