見出し画像

災いと芥川龍之介 第三章 この期に及んで本を読んでいる奴がいる

この章の魅力:橋と書くめえ

電車はひどくこんでゐた。が、やつと隅の吊革つりかはにつかまつて、懐に入れて来た英訳の露西亜ロシア小説を読み出した。何でも革命の事が書いてある。労働者がどうとかしたら、気が違って、ダイナマイトをはふりつけて、しまひにその女までどうとかしたとあつた。かく万事が切迫してゐて、暗澹たる力があつて、とても日本の作家なんぞには、一行も書けないやうな代物しろものだつた。勿論自分は大に感心して、立ちながら、ぎようあひだへ何本も色鉛筆の線を引いた。

晩秋の色にその頁が染まってゆくのはロープシン(一八七九–一九二五)の『蒼ざめたる馬』(一九〇九)の英訳です。絶えず降りかかる銀雪を散りばめたような文体を、主人公のニヒリズムが曳いてゆきます。革命の浪漫にいかれた者たちはこぞって読んで、気骨稜稜たるを誓ったと聞きます。「自分」はどうでしょうか、読書に熱が入り、電車は「橋」の上にさしかかります。事が起こりそうです。

所が飯田橋いひだばしの乗換でふと気がついて見ると、窓の外の往来に、妙な男が二人ふたり歩いてゐた。

「橋」の向こうから何者かが来ます。

その男は二人とも、同じやうな襤縷々々ぼろぼろの着物を着てゐた。しかも髪もひげものび放題で、如何にも古怪な顔つきをしてゐた。自分はこの二人の男に何処かでつたやうな気がしたが、どうしても思ひ出せなかつた。

「自分」はこの風狂な身なりをした二人が思い出せないでいます。見ると一人は棒のような何か、もう一人はダイナマイトを携えて、彼らヘルメットを着けていないので味方かどうか知れません。あるいは敵か、「自分」は何時かうらみでも買ったのでしょうか。

すると隣の吊革にゐた道具屋じみた男が、
「やあ、又寒山拾得かんざんじつとくが歩いてゐるな」と云つた。

はて、寒山拾得が東京に居るはずは無い。ですが、成程よく見るとあの棒は箒で、ダイナマイトと思われた円柱は巻物に違いない。道具屋じみた男の神業が持物attributeをくるりと置き換え、不可避であるはずの闘争はすんでのところで追懐に形式を変えられてしまいます。革命児はダイナマイトを卒業して風狂の寒山拾得を懐かしみ始めました。終いには、

自分は吊革つりかはにつかまつた儘、元の通り書物を懐に入れて、うちへ帰つたら早速、漱石先生へ、今日飯田橋で寒山拾得に遇つたと云ふ手紙を書かうと思つた。

とか言う始末。六〇年代らしくないのです。

然もありなん、ここに見たのは趣味宜しい芥川氏が物した大正七年の『寒山拾得』です。電車内に微かに漂った爆薬の香は、前年大正六年のボリシェビキ革命を受け、少なからず気力を取り戻した本邦の社会主義者たちの鼻孔をくすぐった香で、『蒼ざめたる馬』の初の邦訳は大正八年、青野季吉(一八九〇–一九六一)の筆によってなされよく読まれたようです。

寒山拾得が渡れば、東洋の秋を嘆く武士も渡ってきます。

日本の庭をめぐって、一つの橋にさしかかるとき、われわれはこの庭を歩みながらめゆくものが、何だらうかと考えるうちに、しらぬ間に足は橋を渡つてゐて、
「ああ、自分は記憶を求めてゐるのだな」
 と気がつくことがある。そのとき記憶は、橋の彼方かなたの藪かげに、たとへば一輪のしぼんだ残花のやうに、きつと身をひそめてゐるにちがひないと感じられる。

三島由紀夫(一九二五-一九七〇)『「仙洞御所」序文』

記憶の残花の匀に「おれ」も浸るのでした。

(…)路ばたの水たまりの中にも、誰が摘んで捨てたのか、青ざめた薔薇ばらの花が一つ、土にもまみれずに匀つてゐた。もしこの秋の匀の中に、困憊こんぱいを重ねたおれ自身を名残りなくひたす事が出来たら――

『東洋の秋』

挙句、橋の彼方に、あり得べくもない寒山拾得の記憶を手繰り寄せて喜びます。「しかし、」と武士は続けます。

しかし、又この喜びは裏切られる。自分はたしかに庭を奥深く進んで行つて、暗い記憶に行き当る筈であつたのに、ひとたび橋を渡ると、そこには思ひがけない明るい展望がひらけ、自分は未来へ、未知へと踏み入つてゐることに気づくからだ。

『「仙洞御所」序文』

橋を渡って未知へ、未来へ行くと、翌年大正八年の「繊巧の病」についてこういう声が聞こえてきます。

マニエリスティックな作品のなかに、これまで世人は、装飾過多、気まぐれ、技巧、貴族的孤立、病的に堕しやすい極端などの欠点のみを見てきた。

[manneristicマニエリステイツク マンネリの] 澁澤龍彥『魔的なものの復活』

「世人」とはつまり新聞屋のことで、龍は「しかし、」と続けて新聞屋の向こうを張るのです。

しかし、世界を寓意や暗喩や象徴によって解釈する、人間精神の本質的な傾向のあらわれとして眺めた場合、マニエリスムのいわゆる悪趣味は、新たな光のもとに、これまでとまったく違った相貌を呈するだろう。マニエリスムとは、要するに『狂熱の追求』であり、『今日では、それをシュルレアリスムが代表している』と述べたのは、エロティシズムの哲学者ジョルジュ・バタイユである。

[mannerismマニエリスム マンネリ]『魔的なものの復活』

時の融け合う逆説/逆接の橋上では、もはや署名signは何の意味も持ちません。一つの精神が闊歩してゆくところを呼び止めてみれば、小文字の
mannerismマンネリが大文字のMannerismマニエリスムになるでしょう。『蜜柑』はマニエリスムの文学です。『沼地』もマニエリスムの文学でしょう。

橋を渡って彼岸の書へ、未知の書を尋めゆく。「しかし、」……。この浪漫派の橋を渡りきることは、追憶と革命の縁組無くしてできません。革命の香、靴墨のそれのような爆薬特有の香はメランコリックな作品たちから漂ってはいたものの、『寒山拾得』もあと少しまで来ては挫けてしまうのでした。

では社会主義についての論文を多く載せていた総合雑誌『改造』、その大正九年四月号に『東洋の秋』と併載された散文詩はどうでしょうね。

(第三章 おわり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?