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実家のさなちゃんねる

 ねぇ昨日の名取の配信見た~?
と、いう学生時代を過ごしたかった。出来たら小学生の頃とかに。

 名取さなの配信、とりわけ雑談配信の外れのなさが凄い。1人部屋で見ていて面白くてにんまりと笑う配信は数多くあっても、声をあげて笑うコンテンツはそうそうないはずなのに毎回げらげら笑っている。とりわけお気に入りのものは「怖くないお知らせサムネを作る回」と「デスゲームを主催する回」で、これらはリスナーと会話しながらひとつのものを完成させる形式でできている。

 コメント欄との会話、Vtuberのファンが爆発的に増えるに伴い失われてしまいがちなもののひとつだ。私個人の感想だけれど、コメント欄があまりにも賑やか(マイルドな表現)だと非表示にして配信画面だけを見るようにしているため、コメント共に楽しめる配信が徐々に減っていってしまう。
 そもそも数千人~数万人の人間を前にしたとき、ゲーム配信や事前にお便りを選別しておくラジオタイプの配信は非常に都合が良い。準備ができる安心感もあり、話のネタやリアクションにも困らない。きっと私が急に画面の向こうの1万人を楽しませろ!!とナイフを突きつけて脅されたら龍が如く7の実況配信をやる。最高に面白いゲームだから、このゲームを手にしているだけである程度の勇気と安心をもらえるはずだ。
 だけど名取はそうではない。近況などのある程度のフックがあったりもするが、無軌道に雑談を展開していくことが殆どだ。そうして話してコメントを拾い上げて広げていくうちに、幽霊バイトの募集文だとかを作り始める流れになる。そう、コメント欄と作る配信が面白いというのは、彼女の舵取りの上手さがなせる業なのだ。にじさんじの笹木と椎名も「拾うコメントで配信の空気が決まる」なんてことを言っていた気がする。かなり的を射ていると当時も思ったし、名取に限らず他の配信もそうやってコントロールされているのだと感じる。クラブでDJに踊らされるそれによく似ている。

 せんせえ(名取さなのファン)達は基本的に馴れ合いを禁じられている。コメント欄でせんせえ同士が会話するのは勿論、イベント終わりにご飯に行く様子も、どうやらきちんと見られている、らしい。私はこの決まりの存在そのものが彼女とリスナーの会話の面白さに大きく貢献していると感じている。
 長らくいろんなコンテンツを見ていると、ファンと交流することの疲労を感じることも少なからずある。私は特にその傾向が強いことを自覚しているし、そのせいで自分が純粋にコンテンツを楽しんでないかも、と自己嫌悪に陥ることもかなり多かった。馴れ合い禁止、という決まりは私に他のオタクを気にしない理由をくれている気がするのだ。
 また、シンプルにひとりひとりが名取の言葉やコンテンツの受け手となることの意識を高めることに成功していると感じるし、逆に禁じているからこそせんせえ同士が結託してなとりとプロレスを取り、「そこ馴れ合うな!!!」というツッコミが成立する1対多数の仕組みも上手く取り入れられるというわけだ。
 名取の配信を見ていると”せんせえ”と呼ばれるひとつの塊の一部になったような感覚がある。名取がコメントを読んで笑っていると嬉しいが、その笑顔は別に自分だけのものでもないし、そこに独占欲もない。だけど確実にせんせえとしての自分の方を向いてくれている。ピュアな少女漫画でもそうそうないような透き通った”好き”を自分の中に感じる。それもまたたまらなく嬉しいのだ。自分って思ったより汚いオタクじゃないかも、と思わせてくれる。

 長年培ってきた横のつながりや周囲のサポートがあるとはいえ彼女は”個人勢”である。ひとりでそのスタイルと地位を築くための労力は今もなお増え続けているかもしれない。テレビCMとそれに伴う那須どうぶつ王国とのコラボ、ライブの準備、グッズイラストの描き下ろしなど、見えないところでも常に多忙を極めているのだろうと想像することは容易だ。だけど絶えず、そして変わらず、配信で見せる名取さなのトークに、リアクションに確実に日々癒しを貰っている。良い意味で変わらぬインターネットに帰ってこられるその場所は、きっと私を含めた多くのせんせえの拠り所となっている。さなちゃんねるは私にとって実家なのだ。
 これからもどうか末永く、その掌の上で踊らせて欲しい。

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