「多様性」とは何か

現代で、とても広がりつつある「多様性」を尊重しようという論調だが、果たしてどれだけの人々が多様性の意味を理解して動いているかは疑問が残る。

実際、諸外国の例なども含めると「多様性」が本来の意味ではない全く別の方向に進んでいると言わざるを得ない事例が増加している。

これから先も、多様性を尊重あるいは大切にしようという「論調」や「雰囲気」は強くなると思うので、多様性を尊重しない多様性に巻き込まれないように、私なりになってしまうが、少し「多様性」の話をしたいと思う。


本来「多様性を尊重する」とは、簡単に言い換えると「違いを認める」ということであり、自分と違う考え方や自分の嫌いなものも、あって当然であるから、その違いを認めて大事にしようねというものだが、この多様性を、違う意味で使う人も少なくない。

多様性を「新しい価値観」を認めさせるための道具にしている人もいる。そのような場合、多様性の意味をかなりねじ曲げて使っていることになる。

本来「多様性」は違いを認め、大事にする(最低でも否定はしない)というものだが、一部の新しい思想や正義を推進することを「多様性」として主張している人達がいる。

もちろん、新しい思想や正義が増えること自体は問題はないし、時代ごとに価値観は変化するものであるが「多様性を認める」ならば、あくまでも新しい思想などは、選択肢の一つとして提示すべきであり、過去の考え方を徹底的に排除することではない。

多様性は、新しい価値観のために過去の価値観を破壊するためのものではないが、現状ではそうなってしまっている。ポリコレで、プラスサイズのキャラクターが増えたという声があった。このときに、以前の美男美女的なキャラクターを無くしてしまったケースがある。例えばポケモンGOなどだね。

これは全く、多様性ではなく、価値観の押し付けに他ならない、多様性のためならば、プラスサイズのキャラクターと従来の美男美女など理想的なキャラクターを共存させ、どちらも選択できるようにするのが普通である。

今の「多様性」に欠如しているのは「かつてのままでいるという多様性」を尊重する心である。

当然、新しいものを求める多様性があるなら、今のままを望む多様性もある。これを理解せずに、一方的に新しい価値観を植え付け、アップデートを迫る人がいるのは残念である。 

私はこのような人達には、多様性という言葉を使ってほしいと思えない。

多様性を認める第一段階は「自分の嫌いなものを否定しない、無視をする」というところから始まる。

自分の嫌いなものを否定してるうちは、自分の嫌いも誰かの好きであるということに配慮していないから、多様性を理解してるとは言い難い側面がある。

そして、これを理解できてから、第二段階の「みんな違ってどうでもいい」となる、自分の嫌いも他人の好きであることを認識したら、次は、人はそれぞれ違うので、いちいちそれを気にしない、どうでもいい、人は人だという考え方をしてみることである。

ここまで来て、ようやく「多様性」の意味を理解してると言えるのではないだろうか。

少なくとも、Xでフィギュアのデザインに文句をつけ、無茶苦茶な理由で貶している人や、男女論で対立してる人達には「多様性」という言葉を使うのは早すぎると感じる。

長文を失礼いたしました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。