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[城南宮+鎮西大社 諏訪神社+新屋山神社+阿須賀神社+龍田神社+廣瀬大社] 宇宙のエネルギーをおろしていた神籬と神々

三輪山から昇る太陽を崇め、二上山に沈む夕日を敬った古代人は、その太陽の日の光に神を見出し、そしてその通り道には神様が降臨できるような神籬をはじめ、社や祠を立ててきました。そういった太陽の道は神様の道として、そして惟神の道として未だに多く残されています。そういった道を辿りながら、私たちの大先祖様が大切にしてきた宇宙への、高次へのエネルギーをご自身の魂へつなげていっていただければ幸いです。

天武の御代に、神様と一緒に切り開いた宇宙への道が再開しはじめています。

饒速日命がもたらした天孫と国津の神々の融合が始まっています。

そういった過去世にもっていたエネルギーを最大限に私たちの現世魂に再度、呼び起こすために、ご縁があると感じた寺社仏閣へは必ず、足をむけていただければ幸いです。


城南宮(じょうなんぐう) ー 京都市伏見区

平安の都の南を守る城南神として、国常立尊(くにのとこたちのみこと)をはじめ、八千矛神(やちほこのかみ・大国主命)と第15代 応神天皇の母 神功皇后(じんぐうこうごう)の神々が祀られている。

城南宮
城南宮 本殿

古代中国では東北の異民族による侵入、そして殺戮といった悲惨な経験により、異民族を鬼と呼ぶようになる。そして、異民族が侵入してくる方向を鬼門と呼び、その侵入経路を封鎖すべく結界を張るようになる。そういった思想に影響を受けた都人は、侵入者が入ってくる方位を鬼門と呼ぶようになり、その鬼門に結界を張るように寺院を設置するようになる。
表鬼門は男鬼門とも呼ばれ、東北の角(艮=うしとら)の方角を指し、その対角線上の反対に位置する南西の角(坤:ひつじさる)を裏鬼門として女鬼門とも呼び、裏鬼門は日本独自の思想に基づく結界である。

京都御所から見て南西にある城南宮は裏鬼門として、方位除け(方除:ほうよけ)の役割を持っている。

神楽殿

京都の建物の北東や南西を角(つの)と呼ぶが、鬼(侵入者、邪気)には角があることから由来しており、その方位を角と呼ぶ。「角を欠かす」という風習は現代の京都にも残っており、鬼門にあたる塀の4つ角を敢えて凹んだ形に作ったり、鬼門の角を四角く囲って禊の象徴である水を意味する白玉砂利を敷いたりと、鬼門封じ(鬼門除け)が所々に存在する。

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方除として知られる城南宮には多くの人々が訪れますが、私が興味を持った理由は神功皇后が祀られていることです。神功皇后は三韓征伐をおこなった女帝として、また、応神天皇の母親として、応神とともに八幡神社に祀られていることが多いのですが、なぜ城南宮に祀られているのかが不思議でした。

そこでキーとなったのは鬼門でした。
京都の裏鬼門と言えば城南宮のほかに石清水八幡宮があり、その主祭神は八幡神 応神天皇です。そういった関係性により、応神の母親である神功皇后が城南宮に祀られているかなと思い、また京都御所から城南宮を経由して更に南下すると神功皇后が眠るとされている五社神古墳が一本の直線状に存在しています。

794年、北東の京都へ遷都した後、様々な災いが起こりはじめ、陰陽師たちはその理由を考えた結果、神功皇后が息づく奈良と応神が眠る誉田御廟山古墳、そして住吉三神が祀られている大阪をきちんと祀ることで、逆にそのエネルギーを都へ取り入れてきたようです。

神功皇后と言えば住吉三神のお告げを受け取ったことより住吉大社にも祀られており、住吉にいらっしゃる神功皇后は三神とともに国を引っ張っていく太く、どっしりとした肝がすわっているエネルギーです。そういった意味では、城南宮には国常立尊や大国主命といった日本の国土を守り続ける神々と、日本を統一・統率してきた神功皇后の魂もありますので、自分自身ががどこにいるのかわからなくなった時や、心がそわそわして落ち着かない時、そして迷いが生じてしまい、決断が鈍っている時等、人生の岐路に立っている時に、訪れてください。自分の存在意義、そして現世で克服すべきカルマが表面に見えてくるはずです。


鎮西大社 諏訪神社(ちんぜいたいしゃすわじんじゃ) ー 長崎県長崎市

「おすわさん」と知られる長崎の氏神である鎮西大社 諏訪神社はかつて長崎市に祀られていた森崎大神と住吉大神、諏訪大神の三社を合祀したのが 起源とされている。国の重要無形民俗文化財となっている秋季大祭「長崎くんち」の舞台でもある。

主祭神は諏訪大社の建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)の国津神が祀られており、その一方に伊邪那岐神や伊邪那美神や住吉三神(表筒之男神、中筒之男神、底筒之男神)といった天津神が祀られており、国を創造した神様、国を譲った神様、そして海外へ遠征した神様といった具合に、古代から外交が行われてきた長崎のお国柄が垣間見られる。

鎮西大社 諏訪神社
鎮西大社 諏訪神社を背に見た景色
鎮西大社 諏訪神社から真っすぐに伸びた道に大洋の道が現れる
願掛け 狛犬
拝殿裏にある狛犬を廻して心願を祈願する

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長崎はとても強いエネルギーが地面からモコモコと上がってきており、まるでハワイの山々で感じたような、そしてユタの山脈で感じたような、火の神様のエネルギーが地中から湧き上がってきています。

たまたま諏訪神社の近くに宿をとっており、通りすがりに見つけた神社でしたが、その迫力に引き込まれました。
「こっち、こっち」と拝殿の裏へ誘い込むエネルギーが流れており、裏へまわってみると願掛け狛犬や高麗犬(こまいぬ)の井戸がありました。「こっちこっち」は、「来て!来て!」というお招きと、「見て!見て!」という嬉しさのアピールでもあり、この場所に住む精霊さんたちの根っからの明るさがこの土地のエネルギーになっているのかと思いました。

高麗犬(こまいぬ)の井戸
狛犬の口から湧き出る水でお金を洗うと倍になるや、その水を飲むと安産に霊験ありと伝えられている

境内の中でも特に空気が澄んでいたのはお祓い場で、穏やかなエネルギーが流れています。大きく深呼吸を数回おこない、五臓(いつをさめ)を清め、心を潔き場所として、少しの間その場にたたずまれることをおすすめします。


新屋山神社(あらややまじんじゃ) ー 山梨県富士吉田市

ご縁のある人が辿りつける神社として富士山山麓に鎮座する新屋山神社は、山の神様である大山祇命(おおやまつみのかみ)とその娘の木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)、そして天照皇大神(あまてらすすめらおおみかみ)をご祭神としており、木花開耶姫命は富士山を守る浅間神社の主祭神としても知られている。

新屋山神社 入口
新屋山神社 入口
新屋山神社 本宮

天孫降臨をされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は木花開耶姫命に一目ぼれをしてしまい結婚を申し込むが、その父である大山祇命は姉の磐長姫命(いわながひめのみこと)とともに娶ってほしいと懇願する。容姿が醜かったとされる磐長姫命を瓊瓊杵尊は気に入ることなく親里へ送り返すと、その行動に怒った大山祇命は、岩のように永遠の命が続くようにとの願いで石長比売を送ったが、その願いも不要ということで、天孫の寿命は永遠ではなくなるだろうと伝えた。瓊瓊杵尊の子孫である私たち人間は、この頃より不老不死ではなくなり、寿命をもつようになったと言われている。

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富士山の二合目あたりにある新屋山神社の奥宮は商売繁盛の神様として多くの人々が訪れます。奥宮までは一本道を昇るだけの道のりですが、唐突に奥宮が出てくるため、見つけられないといった経験をされる方もいらっしゃるようで、また冬季には雪のため、道が閉鎖されるため、訪れたくても参拝出来ない時期もあり、ある意味、辿り着けない神社とも言われています。

新屋山神社 奥宮
新屋山神社 奥宮

ストーンサークルといった環状列石で囲まれていたエリアがあり、このストーンサークルを時計回りに三周した後、祠に向かって願いを唱えると、その願いは叶うという言い伝えがあります。祠は霊山 富士山を背にしていることから、山の神 大山祇命と木花開耶姫命へ祈りを捧げます。

ストーンサークル 祠
ストーンサークル 祠

本宮から奥宮へ向かう道でそれまで晴天であった天からいきなりシャワーのように雨が降ってきたため、奥宮へ向かう前に禊ぎ、清めるための天水だと咄嗟に思いました。

神社に着いた途端、降っていた雨も止み、聖域へ入ってもよいというメッセージです。こういった経験は、ある街へ入る前にいきなり大雨が降ってきたり、参道を歩いていると霧雨にあったりと、これらはすべて神様からのウェルカムメッセージです。
寺社へ入る前に身の穢れをとるために手水(ちょうず)で手や口を清めますが、その土地へ入る前に雨水=天水をいただくということは清めの儀式と同じことです。こういった現象に出くわしたときには是非、神様へ出迎えていただいていることへの感謝をお伝えください。


阿須賀神社(あすかじんじゃ) ー 和歌山県新宮市

蓬莱山の麓に鎮座する古社として事解男命(ことさかおのみこと)、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)が祀られている。
弥生時代の竪穴住居が見つかっていることや、蓬莱山が阿須賀神社のご神体はあったのではないかと言われるような祭祀用具が見つかっていることより、阿須賀神社は自然崇拝の古代祭祀場であったのではないかと言われている。

阿須賀神社 本殿
子安之社
弥生時代 竪穴住居跡

蓬莱山という名前より、徐福(じょふく)が阿須賀に上陸したという伝説がある。徐福とは秦の時代の人物で道教方士として始皇帝に仕えており、不老不死の仙薬を探すために童子3000人を伴う大船団で東へ向かって船出したが、その後、秦に戻ることはなかった。

徐福之宮
徐福公園
徐福像

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神奈備(かんなび)の「かん」は「神」、「奈」は「の」、「備」は「辺:あたり」を意味しており、 神奈備とは神が降臨する神聖な山や森を意味します。特に奈良県の三輪山は神奈備の代表格であり、大物主を鎮める神の山としての信仰の以前に、古代信仰がされていた山ノ神遺跡も見つかっており、御諸山(みもろやま)や 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろだけ)と様々な美称を持つ円錐形の山です。

徐福が上陸したとされる蓬莱山も神奈備とされ、その地名が阿須賀というところに古代より神聖な山とされてきた所以が見えます。阿須賀の「あすか」は安住の地を意味する安宿(あすか)とも言われており、東の最果てに見つけた日本を渡来人たちは極楽浄土のように考えた思想がわかります。
阿須賀神社の境内には竪穴住居跡もあり、まさに古代人たちが蓬莱山の麓で祭祀を行っていたように、蓬莱山を平穏な土地として日々、安楽に生きてきたことが伺えます。阿須賀神社を訪れる際には必ず、寺社裏の蓬莱山へ近寄り、その漂う気に触れてください。心にある私たちが生まれ持つ平穏さに気が付くと思います。


龍田神社(たつたじんじゃ) ー 奈良県生駒郡斑鳩町龍田

聖徳太子に法隆寺建立の地を告げたとされる龍田大明神を祀る。三郷町の龍田大社 本宮の摂社として、新宮または新竜田と呼ばれる。天御柱命(あめのみはしら)と国御柱命(くにのみはしら)の風神を主祭神としており、風や雨を鎮め、水難や疫病を防ぐ厄除の神様としても信仰される。

龍田神社 拝殿
ソテツの巨樹

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天武天皇が龍田神社と廣瀬神社の両社へ毎年、官人を送り、風の神と水の神を祀ったとされるぐらい、風と水の神様を大切に敬われていたようです。

なぜ風?なぜ水?と思いますが、五行思想に長けていた天武ならではであり、また日本書紀には「天文遁甲を能くしたまえり」という記述もあり、天武天応が天文/占星術をはじめ、遁甲/忍術にも明るかったことも明らかです。自らが天界の動きや忍術を会得しているということは、当然植物が育つために必要となる要素の日や風、水にも興味を持ち、特に風が光合成に必要な酸素や二酸化炭素を植物へ供給することや、風が吹くことで、病害虫が発生しにくい環境を作り出すことも熟知されていたと思われ、更に土中にとけている肥料(ひりょう)を水を通してすい上げて、植物の成長を促すこともです。そう考えると古来より、天皇の役割とは国のために、そしてその国の人民のために、神様と対話をされ、時には対峙を通して、神様の意向に背くことなく、契約を交わしながら国家を運営してきたのかなと思います。

2023年は風の時代の幕開けです。土の時代にはマイホームを持ったり、会社での地位を確立するといった物質的な豊かさや安定さに価値がありましたが、風の時代からは心の安らぎや魂の豊かさといった目に見えない精神的な物事に価値が見出される時代です。言い換えると、条件や我慢といった自分の犠牲と引き換えに地位や名誉を得てきた時代から、個性といった多様かつ可変的な生き方や暮らし方が中心となる時代へ移り変わります。
このような大きなエネルギーシフトの最中、引き続き、物質的なものにとらわれて生きていくのか、或いは、個人の自由や生まれてきたことに感謝をしながら、生きることへの喜びを感じて日々を過ごしていくのかで、これからの時間の流れが変わります。

2024年にはその差がはっきりと目に見えるように現れるようになり、どちらの道を選ぶかは、私たち一人一人の決断です。そんな折、私はどちらへ行っているのかわからない或いは、どのようにすれば喜び道へ行けるのかと考え込んでしまっている方は是非、龍田神社を訪れてみてください。訪れる決断をした瞬間より、実は光の、喜びの道を選んでいます。


廣瀬神社(ひろせじんじゃ) ー 奈良県北葛城郡河合町

崇神天皇の御代、河合の土地に龍神が現れ、祭ったことが廣瀬大社の起源とされており、若宇加能売命(わかうかのめのみこと)を祀る。悪水があれば良水に変える治水の神を祀る廣瀬大社は9つの川が合流する場所に鎮座する。
2月11日に行われる奇祭 お田植祭(砂かけ祭)では五穀豊穣を願い、百姓と牛に扮した村人が苗代作り・巡り・苗植えの順に田植の所作を行い、その後、豊作を祈って雨に見立てた砂を掛け合い、その砂を激しく掛け合えれば掛け合うほど雨が多く降ると考え、その年は豊作になるという言い伝えがある。また掛け合う砂をかぶればかぶるほど、厄除けになるとも言われている。

廣瀬神社
廣瀬神社 本殿

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天武天皇により南北朝時代まで続いた大忌祭(おおいみのまつり)は毎年4月4日と、7月4日に行われる豊穰祭であり、朝廷が主催した祭典のようです。そう考えると、天武朝に始まり南北朝の後醍醐で廃れてしまった祭事や政が結構あるかなと思います。大忌祭をはじめ、斎王や吉野行幸といった天武の御代に確立された神様と人とのつながりは、後醍醐以降、より物質的なものへと変わっていったように思います。私たちの祖先も多くの頼み事を精霊や神様にしてきたようですが、どちらかというと「困ったときの神頼み」というわけではなく、神様と繋がる祭りごとを通して、或いは神様と一緒に祭りごとを行い、宇宙のエネルギーを動かしてきたようです。

廣瀬には水を司る神を、龍田は風をおこす神を祀り、そしてその神々を敬い、祭ることで国土の安定・安泰を収めた天武天皇・・・、その子孫である私たちが日々、平穏に暮らせるのもこういった祖神のお蔭さまと感じていただける神籬へ足を運んでいただければ幸いです。


私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。

今を大切にお過ごしください。



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