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気づきがあるから弥栄する

人は自由だという前提で生きています。

皆さんは自由に考え、自由に選んでいると思っています。

自分の考えは束縛されている、制限されているとは感じていないはずです。

ですが皆さんの考え方、価値観は自分で好き好んでつくり上げたものでしょうか?

怒りや憎しみの感情を、瞬時に喜びの感情に変えることは出来るでしょうか?

両方出来ると言える人はいないと思います。

なぜ出来ないのかと言うと、それは与えられたもので皆さん自身ではないからです。

例えば生まれた環境や体験により人を憎んだり、嫌うようになったとします。

その人は好き好んで人を憎んだり、嫌ったりしているのではありません。

それしか出来ないから、そうなっているだけです。

もし皆さんが同じ環境に生まれ、同じ体験をしたなら皆さんも同じように人を憎み、嫌うことしか出来なくなります。

それによって犯罪を犯してしまうのも宿命ゆえに誰の責任とも言えないんです。

どんな事件や事故が起こしたとしても裁かれるべき者はどこにもいないんです。

過去のマスター達が『個人などいない』『憎み、嫌い、裁くことをやめなさい』と口を揃えて言うのはそういう意味があるのだと私は感じています。

ですが、そのままで良いと言う意味ではありません。

神は人に『気づき』という能力を与えています。

過ちに気づくから反省することができ、反省するから改善、弥栄するんです。

現在を足場に気づき、弥栄してこそ今はより良く浄化されていきます。

狭い視点で見ると悪と見えることも神の立場、つまり永遠の立場で見ると悪などないんです。

以下は日月神示の一文とインドの聖者ラジニーシの言葉です。


日月神示
【春の巻 14帖】
どんな草でも木でもその草木でなければならん御用あるぞ。
だから生きているのぢゃ。
そのはたらき御用忘れるから苦しむ。
行き詰る。
御用忘れるから亡びるのぢゃ。
個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。
御用大切、御用結構。
日本が変わって世界となったのぢゃ。
自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。
悪の祈りには悪の神。
善の祈りには善の神。
始めの間は中々わからんものぢゃ。
神様のなされる真似から始めて下されよ。


【春の巻 18帖】
使命がいのち。
上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。
使命はつくられた時に与えられる。
使命なくてものは生まれんぞ。
自分の使命は内に聞きつつ外に聞けよ。
使命果たすがよろこびぞ。
使命果たすには生命がけでなくてはならん。
生命じゃからのう。
努力した上にもせなならんぞ。
努力には苦もあるぞ。
苦のない努力ないぞ。
右を動かせば、左も動くぞ。
果たせば苦は楽。
果たさねば楽も苦。
重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。
神が主であるぞ。


【ラジニーシの言葉】
人は無明のなかに生まれるが、人にはその無明を払いのけて『気づき』を持つようになる可能性も最初から備わっている。
私たちはこの神秘をただ受け容れるしかない。
私たちは惨めさの中に生まれるが同時にそれに打ち克ち、それを超越し、至福に満ちるようになり、歓喜にあふれるようになる潜在的な能力もそなえている。
私たちは死のさなかに生まれるが、同時にその死を乗り越えて不死に至る可能性も秘めている。