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一切が私として生きる

他者を無視した自分本意な行為、エゴ剥き出しの行為は良くないと多くの方が思っています。

日月神示でも我善しの行為は慎むべきものとされています。

仮に世界中の人々が一斉に我善しの行為を続けるとどうなるでしょうか?

それぞれが自分が一番正しいと主張し、行為するわけですから衝突しか起こらず、平和とは無縁の世界になるでしょう。

我善しとは自分以外のものがあるのに無いこと前提で生きることです。

自分という個は全体という動きの中にあるごく一部に過ぎません。

それが全体を無視して行為するのだから思い通りになどなりません。

加えて全体の動きの邪魔をするから様々なトラブルを生み出します。

これでは不満にしかならず、さらに多くの人の怒り、恨みを買い続けるため多くのものを失うことでしょう。

ですが我善し人間にはそれがわかりません。

なぜなら自分のことしか見えてないからです。

故に他者の気持ちがわからず、誰かが悪い、自分は悪くないとなってしまうわけです。

それを日月神示では盲、聾と表現されています。

つまり現実が見えず、周りの声が聞こえていないわけです。

現在、世界の調和が乱れているのもこれが原因です。

これを解決するために日月神示では『まつり』『まつり合わせ』が言われています。

まつりとは自分、個人、我に偏らないことです。

自他の区別をしないことです。

師匠の言葉を借りると『一切が私』として生きることです。

以下は日月神示の一文です。

日月神示
【富士の巻 22帖】
まつりまつりと、くどう申して知らしてあるが、まつり合わしさえすれば、何もかも、嬉し嬉しと栄える仕組ぞ、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理わかりたか、まつりと申して⦿(かみ)ばかり拝んでいるようでは何もわからんぞ。
そんな我れ善しでは⦿の臣民とは申せんぞ、早うまつりてくれと申すこと、よく聞き分けてくれよ。
我が我がと思うているのはまつりていぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よくわかろうがな、この御道は鼻高と取り違いが一番邪魔になるのぞ、と申すのは、慢心と取りちがいはまつりの邪魔になるからぞ。
ここまで分けて申さばよくわかるであろう、何事もまつりが第一ぞ。

【月光の巻 30帖】
心の入れ替えせよとは、新しき神界との霊線をつなぐことぞ。そなたは我が強いから、我の強い霊線との交流がだんだんと強くなり、我の虫が生まれてくるぞ。
我の病になって来るぞ。
その病は自分ではわからんぞ。
訳のわからん虫わくぞ。訳のわからん病流行るぞと申してあるがそのことぞ。
肉体の病ばかりでないぞ。
心の病はげしくなっているから気つけてくれよ。人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。
この病治すのは、今日までの教えでは治らん。
病を殺してしもうて、病を無くしようとて病は無くならんぞ。病を浄化しなければならん。
悪を殺すという教えや、やり方ではならんぞ。
悪を抱き参らせて下されよ。