私はヤンキーでいい。ヤンキーがいい。

昨日、「AIはガリ勉の最終形態ではないか」という話になった。たしか、課題に対してあまりにまっすぐすぎるという文脈において、だった気がする。その場の空気は「ガリ勉とか人種が違うのでちょっとよくわからないです。」という感じで、おそらくそこで唯一のガリ勉だった者としてはいたたまれなくなり、つい「私、ガリ勉でした。」と白状していた。

昔の私はガリ勉だけではなくオタクでもあったけど、オタクってたぶんガリ勉の別形態なので、結局ダブルのマシマシでガリ勉だったのだ。ただ純粋に勉強が楽しかった気もするし、ガリ勉にならないと入れない大学だったからガリ勉にならざるを得なかった気もする。

結局、大学に入って周りの人たちの文化レベルに圧倒され、鼻っ柱を叩き折られた。私はあんなに頑張ったのにちっとも偉くないしちっとも面白くないじゃんと恥じ入り、努力の方向性を一本化しすぎたことを猛烈に後悔したことは鮮明に覚えている。そこからは開き直って、いかに文化的に豊かになるかの試行錯誤だった。美術館に行ってみたり、色んな雑誌を買ったり……デザインの勉強もその中で見つけたものだった。そうして今ここにいる。

なんて、そんなことを一言の白状の間に思い出していた。

その日初めてお会いした先生が、「それで、そのあと君はどうしたの?」ととても凪いだ表情で聞いて来られた。それがとてもドキッとしたけれど、その時自分の口からするっと「もっとノイジィになろうと努力しました。」という言葉が出てきた。

その時、そうか、私が豊かであると思ったものはノイズだったのか、と思った。昨日あの場所で、「AIによる自動運転が普及した未来でヤンキーはどのように暴走するのか。」という、へんてこなテーマで楽しくおしゃべり出来た私は、きっと一生懸命掻き集めてきたノイズのかたまりだったのだ。

私は、そんなノイズだらけの自分になれてよかったと思うし、今更これを手放したくはないと思っている。AIが人間にとって代わるというけれど、結局それって日本の教育が生んだ詰込み型人間……つまりはガリ勉を、その最終形態のAIが凌駕するというだけなのではないかと思う。だから、これからの人間性を担保していくのはおそらくAIが排除するノイズだ。

ヤンキーはとにかくうるさいし、もちろんそういう教育の外にいる。AIがガリ勉の最終形態なら、AIが排除しているノイズはヤンキー的だ。

だから、可能な限り私はヤンキーでいいし、ヤンキーでありたいと、宣言しておこうと思う。

追記:
例の先生から一斉送信のメールが来た。曰く。「ヤンキーというのは、分野とか領域とか制約に関係なく、自分の思うがままに駆け抜けるスタイル」とのこと。いつまでもそういう人間でありたいと自然に思えた。(20180929)

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