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女子高に思いを馳せたい2023

「タイムマシンで過去に戻れたら、いつに戻りたい?」という質問はよく耳にするけれど、私はいつだって今の自分が最高だと思っているので、いつだろうと過去には戻りたくない派。

なんだけど、最近は女子高時代が懐かしいなと思うことがある。高校時代ではなく、ポイントは「女子高」時代である。

高校受験のとき、記念も本命も滑り止めもふくめて、たしか私は4校受けたと記憶しているのだけど、そのうち3校は女子高を選んだ。

共学だったのは記念受験した1校のみで、頭の中ではずっと女子高を謳歌する自分しかイメージしていなかったから、きっとそこに受かっても通っていなかったような気がする。

というか、その高校についてはなんのリサーチもしておらず、過去問のひとつも解いていなかったので、試験会場で初めて「あーこっち系の問題を出す学校ね~、はいはい。わーノータッチだったジャンルだ~^^」という学びがあったくらいで、本当になぜ受けたんだろう。受験料がもったいなさすぎた。

そんなわけで受験結果は3勝1敗。当然ながら本命だった高校を選んだのだけど、中学には形式上、第二志望だった都立高校を第一志望として出していたので、そこに受かった時点で本来ならば都立高校への入学が決まるはずだったのだけど、どういうマジックを使ったのか、私は最初から心に決めていた本命の私立高校に入ることになった。

今はそういう規則はないのかもしれない。当時も、中学生の気持ちなんていつ心変わりするかもわからないのに(大人だって感情はいつだって変わっていくものなのに)、なぜ第一志望に都立を選んでいたら、第二志望以下は「第一志望に落ちたときの候補」になるのかわからず不服だった。

(ここまで書いて「都立で女子高っておかしくないか?」と疑問が生まれ検索してみたら、たしかに元女子校ではあったけど昭和の時点で共学に変わっていた……。しかも数年前に中高一貫に変わり、高校からの生徒募集は行わなくなっていた……のだけど、私の記憶している学校名が正しいかどうかもわからないので、このまま進行します)

みんなが受験勉強をしはじめる直前くらいまで「とりあえず自分が行ける範囲で一番偏差値の高いところに行く」くらいしか考えていなかった私が明確に「この学校に入りたい!」と思うにはきっかけがあった。

女子高出身の母からその自由で楽しい思い出を幼いころから聞かされていた私は、特に中学時代は男子から嫌がらせに遭い、あとから考えるとこのときの記憶がきっかけでアロマンティック・アセクシュアルになったと思われることもあり(注 本来はアロマンティックもアセクシュアルもトラウマが原因で生じるものではない)、ずっと女子高というものに憧れていて、それだけは譲れない条件ではあったのだけど、なかでも本命の高校は学校見学時に見た光景が決め手になった。

黒髪、眼鏡、ひざ丈スカートの女子生徒と、金髪、カラコン、ミニスカートの女子生徒が一緒に案内をしてくれて、一緒に楽しそうに談笑するのを見て、母の話から読み取った「女子高=自由」というのを目の当たりにしたような気がしたのだ。

実際、女子高はとても自由だった。そしてとことんフラットで、たとえば大人になって初めてその言葉を実際に口にする人と出会いびっくりしたのだが、いわゆる「グループ」ってやつも存在しなくて、全員が「うちら」を構成するような環境だったように思う。

特に私が選んだ学校は校則という校則がほとんどなく、生徒たちが決める(ことで主体性を生み出すとかなんとか)部分が多かったので、そういったところも作用しているのかもしれない。

ある程度偏差値が高いと生徒に自由を与えてくれるから、とにかく勉強はしておいて損はないよなぁと思う。教養はすべてその人の味になるものだし。とかいうと、めちゃめちゃ進学校に通っていたみたいだが、そこまでのレベルではない笑。ただ、勉強はしておいたほうがいい本当に。今でもしたい。

神奈川の高校を選んだということもあり、同じ中学の子がだれもいないというのもよかった。知っている人のだれもいない環境で、新しく自分の世界をつくっていきたかったのだ。

女子高の最大のメリットは、一人ひとりが人間として接せられることだと思う。卒業した途端に私は「女」になり、あの3年間がいかに社会生活を送るうえで自分にとって重要だったかを強く感じた。

私はその後、共学の大学に入学したわけだが、女子大学に通えば、そのモラトリアム期間を延長できたのかもしれない。それとも、大学生ともなれば外部との接触は高校生と比べて遥かに増えるから、女性しかいない環境でありながら個々を見られる機会の少なさに、やはり自分は女であるということをじわじわと植えつけられていく苦しみもあったかもしれない。

経験していないことは考えてもわからないけれど、とにかく私の人生において、あの3年間はなくてはならない期間だったと今なお強く感じる。

高校を選んだとき、私は母に「人生が変わる」と言ったらしい。たしかにそう思った記憶はあるけれど、あまりに母に聞かされるからこれが自分自身の記憶なのか、話を聞いて上書きされた記憶なのか自信がなくなってきた。

でもきっと母はその言葉を聞いて、学費のこと(都立はいうまでもないが、滑り止めは奨学金が出たので本命の高校だけが飛びぬけて学費が高かったのだ)も、都立高を辞退しなくてはいけないこともなんとかしてやろうと思ってくれたのではないかと思う。

なぜなら今では考えられないほど幼少期はおとなしかったという彼女が本来の姿である今の状態になったのも、やはり女子校(彼女の場合は中学から)に通ってからだというから、なにか思うところがあり、次世代の女性である私を導いてくれたのではないかと。(そう考えるとやはり都立は共学だったのかもしれない)

つまり私にとって女子高とはシスターフッドの象徴で、だからきっと最近よく思い返してしまうんだろうなぁと思う。戻りたいわけではないけれど、いつでもどこかにあの日々のかけらをさがしてしまう。

最近一番女子高っぽかったこと

ちなみに最近一番女子高っぽいなと感じたのは、土曜日の昼下がり、寝起き状態のままの母とふたりで、BGM感覚でつけっぱなしにしているTVを見るでもなくぼーっとして、ふと自分の脚に一本だけ長い毛が生えているのに気づいて「えっ見てやばい!めっちゃ長い!」と興奮して報告したら、母も負けじと「なにそんなの。私にだってあるし!」とテーブルの上に脚を投げ出して対抗しはじめたという一連の流れ。

あまりにも女子高すぎた。

散々シスターフッドだの、女子高に通っている間は人間だっただの、話してきたけれど、今はこういう、なんでもない女子高の一瞬を切り集めながら生きています。

なお今回のアイキャッチ画像は、母へのお土産ついでに自分にも買ったこまねこ饅頭。渋谷PARCOでこまねこの撮影が見られると聞き、行ってきたのである。

それにしても、時代の流れでどんどん女子高がなくなっているのはとても悲しい。私の母校はしばらく持ちこたえていたほうだと思うけれど、つい数年前に共学になってしまった。

たとえばトランスジェンダーの方がすごく好きな高校があるのに、性別を理由に入学できないのは悲しいことだけれど、でも共学で素敵な学校もたくさんあるので、女子高も少しは残してくれてもいいのになぁなんて思ってしまったりするのは、ある種特権を持った人の意見だろうな。

なお男子高も残したほうがいいと思っている。男性が男として見られることで女性と同等の不利な状況に陥るとは考えにくいけれど、そういうことではなく、同性同士でケアする文化は女性以外にも必要だと思うから。

マーティは不器用じゃない

話は変わって、はるちゃんが挙げていた『女ふたり、暮らしています。』もタイトルからして女子高のにおいがするのでずっと気になっているのだけど、手をつけないまま早数年。

すっかり本を読まないからだになってしまった。昔は体調を崩して学校を休んでいるというのに、ベッドの中で隠れて本を読んで、余計熱が上がって……ということを繰り返しているような子だったのに。

明確な理由はふたつあって、ひとつはスマホ。SNSしかりwebメディアしかり、時間を溶かすものが溢れすぎていて、しかもテキスト自体は読んでいるから、変に満足感があるんだと思う。

この便利であまりにもキャッチーなツールを置いて、きちんと本を読む時間を取れている人、本当に尊敬する。でもそうすべきなんだよな。なにやってんだよ、ライターだろ。

もうひとつは怖いという気持ちもある。本の最大の魅力は没入感だと思っていて、読後もしばらく余韻に浸っていたいのに、今の生活では、夜中までだらだら起きていることもできないし、朝起きてからベッドの中でぼーっと天井を見上げながら本の内容を反芻することもできない。

日中はもちろん仕事のことを考えなくてはいけないし、しかも私は仕事が結構好きだ(会社はともかく)。自分の中の「ああしなきゃ」「こうしなきゃ」の波に、本を読んでなにかをつかんだあの感覚を流されてしまうのがとても怖い。

そしてそれこそを読後感だと自分が認識してしまったら、あんなに特別だった本は全然特別ではなくなってしまう。それならいっそ、とわざと読まない選択をしている節もある。

でもはるちゃんもそうだけど、日常を送りながらちゃんと本に触れられる人もいるので、私が実際に本を読んだときに昔みたいに堪能できなかったら、それはただ不器用なだけなんだとわかってはいる。

だから本当は不器用な自分にであうのが怖いのかもしれない。今はうまくバランスを保ったまま生活の中に本を組み込める気がしないから。

そういえば『バックトゥザフューチャー』のマーティは「チキン」と言われることがスイッチだけれど、私はそれが「不器用」な気がする。一生「みなみちゃんは器用」と思われていたい、全世界の民から。

「器用」ってべつに100%いい言葉ではないのに、くだらないね。今これを書きながら気づいた気がする。こうやって毎度、言語化するたびに私がひとつずつ可視化されていくなぁ。

今日もお付き合いありがとう。

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