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明日はなにを着ていこう

はるちゃんの日記を読むと、いろんな部分に共感したり、話したいことが出てきたりして、つい私の日記は毎回アンサーソング的な立ち位置に落ち着いてしまいがちなので、今回は我慢しようと思う。

すべてに言及しなくても、そっと飲みこむことで共鳴することもあると信じているので。
そしてそのほうが、お互いの心の中でふくらむ豊かさもあるような気がする。
(人間、言葉で伝えないとわからないことも多いけどね)

でも『あのこは貴族」についてだけ、ちょっと話したい。
「ずっとそう言ってほしかった気がするから」のシーン、もちろん私も記憶にしっかり刻まれているよ。

美紀にとって拓けた瞬間だと思ったし、同じ女性としてものすごくわくわくしたシーンでもあったので、交換日記の提案をしたときのことを引き合いに出されるなんて、光栄でしかない。
ありがとう。

でも結局、どちらのケースも相手が応じてくれないとなにも始まらないわけだから、同じ気持ちで同じ方向を向いてくれたこと、私こそうれしかったよ。

明日のデートも楽しみ!
会ったあとでこの日記を書きたかったという気持ちもあったのだけど、今回に関しては本当に自然なかたちで言葉が滑り出してしまったので、このまま抗わずにビフォーデートに投稿しようと思います。

ちなみに私が『あのこは貴族』で一番すきなシーンは、橋の上で自転車を2人乗りする向こう側の女の子たちと華子が手を振り合うところ。
あの些細な交流を見た瞬間に「この作品はいい映画だ」と確信めいたものを感じたんだよね。

同じ作品をどう観て、どう感じるかによって、それぞれの人となりが表れるような気がするよ。

By the way,

「H/K」も使っていたけど、中学時代は授業で「By the way,」を習って以降、一時ブームが起きて、みんなかっこつけてこれを使っていたような気がする。

そしてH/Kが全国区だということを知った。
ローカルルール的なものだと思っていた……。

それはそうと、最近はコロナ禍にお休みしていたイベントが改めて再出発するということが多く、イベント大好きマンとしては嬉々として情報収集しています。

それで先週の日曜は「六本木アートナイト2023」に行きました、もとい、行こうとしていました。

コロナ前は毎年欠かさず参加していて、普段は怖い六本木(これを言うと「東京生まれだろw」と笑われることも多いのだけど(しかも六本木にオフィスがあった時代もあった笑)、私はとにかく昔から六本木を怖い街だと認識していて、ヒルズができ、ミッドタウンができてどんなに空気が変わろうと未だそのイメージが強いのである)の夜が、なんだか明るく見えるようで好きなので、3年間のインターバルは私にとっては大きかった。

夏を迎える前の風物詩として捉えている節もある。
ロンT一枚で夜を過ごせる季節に、(コロナ前は)缶ビール片手に街中を歩いて新しい発見を見つけるのは、自分の中の子どもと大人が混ざり合う感じがしてとても好きだった。

が、なぜ4年ぶりの開催だという今年のアートナイトに「行きました」ではなく「行こうとしていました」なのか。

それは、開催時間を確認せずに向かったために、着いたころにはすでに終わっていたからです。

六本木アートナイトといえば、0時を過ぎてもその熱を抱えて屯する若者たちでにぎわっているなか(たしかイベント自体も0時以降もやっていたような……?)終電で帰るというのが私のお約束。

ところが、19時に着いた時点でようやく公式サイトをチェックしてみたら、すでに全プログラム終了!
せっかく六本木に来たというのに、5分程度滞在したのち、中目黒に向かい、飲みに行くということになりました。
トホホ(これ以上ない「トホホ」に適したシチュエーションだと思う)。
ちなみに今回の写真は、中目黒に向かう電車内で撮ったもの。

一緒に行ったすきぴは土曜の夜から日曜の朝まで仕事で、その後寝て昼すぎに起きてきて、ゆっくり支度をして19時に合流という感じだったので、どう考えても私(土日フリー)が確認しておくべきだったな、と反省しきりの一夜でした。

S/I(それでいうと※見たことない)

私は計画を立てるのがとにかく下手。
というより、とにかくその作業をする気がないのかもしれない。

今回の件については、ちょっと暇な時間にその手に持つスマホでささっと検索すれば済む話なのに、なぜしないのか。
自分でもわかりません笑。

大人になったらこういうのは自然と身につくスキルだと思っていたけれど、そういうわけではないみたい。
子どもって、未来の自分に期待をしすぎるような気がする。

大学生になったらもっといろんなことを考えていると思っていたし、私はそのときすでに書道の先生をしながら、小説の才能を認められ、最年少で芥川賞を受賞するとも思っていた。

さらに新卒で会社に入ったら急に仕事がバリバリできると思っていたし、仕事も執筆も両立させてしまうスペシャルでミラクルな私すごい!と未来の自分に思いを馳せていた。

実際は時間の計算もお金の計算も苦手なまま。
それなら文明の利器に頼ればいいだけ!それこそが多様性社会!と思って家計簿アプリを利用するも、マメに入力はするんだけど、なぜか自分が月にどのくらいお金を使ったか、頭に入ってこない。

結局、昨今のAI技術の発展の話にも通ずるけど、どんなに優れたツールも、使う人のスキルとセンス次第で優良なものにも些末なものにもなりえるんだよね。

そういやうちのメディアでもガンガンChatGPTに関する記事を公開しているけど、私自身はまだなにも使ったことがない。
あ、もちろんライターさんの記事を編集するときにちゃんとリサーチするので、誤った情報は出していないです。(だれが見ているかわからないから一応フォロー笑)

私たちがおばあちゃんになるころには、もっとさらにAIは生活に浸透していて、使用者のスキルとセンスの平均偏差値も上がっているんだろうなぁ。

最近は月への移住に向けて各国いろんな研究、計画を立てていて、今日までの20年で世界に大きな変化があったように、今日からの20年も常識を覆すようななにかが起きるんだろうなと感じている。

未来に期待するのは悪いことではないよね。
子どものころ、芥川賞受賞時のスピーチを妄想しながらとてもわくわくしたもんなぁ。

はるちゃんは先生になにかを質問したときに真摯に向き合ってもらえなかったと言っていたけれど、実はこれにはうなずけず「そんなこともあったかも?」くらいの気持ちになってしまった。

「あったような気がする」というのは、そのときの感情だけがふわりと鼻をかすめるだけで、具体的にいつごろ、どの先生みたいなのは皆目見当つかないということ。

でもこの感覚が私の中に備わっているということは、きっと体験したんだろうなと思う。
それで、私はたぶん「まぁそんなもんか」と思ったのだと思う。

さっきの話に矛盾するようだけど、私は大人に対してかなり諦めた子どもで、だからこそ自分が大人になったときはすごい人になったるぜ!という気持ちが加速したのではないかという気もする。

期待って、数年前一緒に働いていたアメリカ人の同僚(お昼休憩のときに互いに日本語と英語を教え合うみたいなことをしていたんだけど、またやりたい……アメリカに帰ってしまったきり連絡は取っていないし、私の英語力も衰えた)いわく「英語には存在しない言葉」だそうで、それは「悪い感情」だからだそうだ。

Googleに聞いてみると、たった1秒で「期待する⇔expect」と訳してくれるのだけど、彼女にとっては異なるニュアンスなのか、普段使わない言葉なのか(聞いた気がするけど忘れてしまった)。

なぜ悪いと思うのか、拙い英語でディベートまがいのことをやってみたけれど、私の言いたいことが100%伝わったとは思えないし、彼女の言いたいことも100%伝わっていないと思う。

そのうち喧嘩をしていると思われたのか、周りの同僚たちに「まぁまぁ」みたいな感じでなだめられて終了せざるをえなくなったのだけど、もっとちゃんと話したかったな。

私は、期待はいい言葉だと思う。それは日本人の悪い癖で、そんな気持ちがあるからプレッシャーに感じてしまったり、裏切られたと過剰に反応してしまうんだ、と彼女は言っていたけれど、だれかから期待されていれば、自分にちゃんと期待できるようになると思うんだよね。

それで結果として期待外れなことになってしまったとしても、自分の(だれかの)期待に応えようと思う過程こそが大事だと思う。
この考え方こそ「日本人らしい」かもしれない笑。

はるちゃんはきっと先生にちゃんと期待していたんだろうと思う。
しかも、その経験は1回じゃなかったというから、一度期待を裏切られてもまた信じてきたってことだよね。

はるちゃんが出会ってきた先生たちがみんなその気持ちを汲んであげられるような人じゃなかったことはとても残念だけど、私みたいに大人に対してなんの期待もしない、なんならちょっと見下してさえいた生意気ガール(そのくせ表向きはちゃんと先生が好きになる優等生面をしつづけてきたこともふくめ)と比べて、著しく「正解」のような気がする。

……と、「それでいうと」から始まった話だったのに、もとの六本木アートナイトの話よりも長尺になってしまった。
脱線しすぎて、これぞ日記という感じ。

そろそろおしゃべりは終わりにして、明日着ていく服でも考えようかしらね。

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