見出し画像

ハッピーエンドはボロボロだった #3

「昨日、先輩と飲んでただろ?」
「え?」
珍しく内田が隣の席に座り、話しかけてきた。
「なんだっけ、名前。1個上の」
「ああ、飲んでたよ。なんで知ってるの」
わざと無意味にけらけらと音を立てて笑いながら返す。
内田はいつもの早口で続けた。
「お前、あの人と仲いいよなー。いや昨日あの辺で飲もうとして店探してたんだけど、たまたま見かけたから」
「あーそうなんだ。俺もあそこ初めて入ったんだよな」
嘘をつくつもりなどなかったのに、なぜかそんなことを口走っていた。
本当はその店には週1,2で通っている。先輩と飲むときは決まってそこだからだ。

「弥生ちゃんに言ったら悲しむだろうな~」
内田が下卑た笑い方をする。
「やめろよ、お前絶対言うなよ」
こう返すのはお約束ってやつだ。
僕と先輩が2人で飲んでいたことが弥生さんに伝わったところで、たしかに先輩は綺麗な女性だけど、特に問題はない。弥生さんが悲しみも怒りも抱くはずはないのだ。

僕たちの交際は、100%の純度で完璧な関係を保っている。
だから彼女が僕と先輩のことを疑うことは絶対にありえないし、実際に先輩とはそういう仲ではない。
弥生さんよりも一緒にいて居心地がいいのはたしかだけれど。

僕の自信などよそに、内田は調子に乗って「内緒にしておく代わりに今期のレポート書いてもらおっかな~」などとのたまい始め、そのタイミングで教室のドアが開き、教授が入ってきた。

「代筆のレポートには単位をあげませんよ」
教授は表情も変えずにそれだけ言って、全体を見渡した。
ゼミではいつも出欠を取らない代わりに、こうして教授が目視でだれが参加しているのかを確認する。
内田は少しだけばつの悪そうな顔をしてから、こちらを見てへへっと声を出して笑い、机に突っ伏して寝ている海馬に向かって消しゴムのカスを投げた。
軽くその腕を掴んでたしなめると、またばつの悪そうな顔をして、自身も机に顔を伏せ、うたた寝の準備をし始めた。

教授は学生たちの出欠にも講義への関心の有無にもまったく興味がないようだ。
今日も淡々とヴァージニア・ウルフについての講説を始めた。
抑揚もなく流れるように話すから、たしかにゼミはいつも眠くなる。
だけど僕はなんとなくこの先生の講釈が好きだ。
レポートも一番熱心な文章を書いて提出している自信があるから、自惚れでなければ教授の方も僕のことを少し特別扱いしてくれているように感じる。

机の上に出しておいたスマホがバイブで揺れた。
先輩からのメッセージだ。
「昨日は奢ってくれてありがとう!早速だけど今日空いてたら代わりに奢ろうと思うのだけど?」
僕はすぐに「いいよ!」と送り返した。
そういえば、弥生さんにはこんな言い方をしない。
僕が先輩とのことで弥生さんに知られたくない部分があるとすれば、それは2人きりで飲んでいるという事実よりも、やりとりしている文面かもしれない。

火曜日は先輩も僕も3時限で終わるから、いつも特に待ち合わせをせずに、各々授業が終わり次第いつもの店に向かう。
ガラス戸から中を眺めると、先輩は先に席に着いていた。
左側、一番手前の2人席。もはや指定席だ。
戸を開けると同時に先輩は僕に気づき、既に8分目まで減っているビールを軽く上に掲げた。

ほかにはだれもいない。
平日の15時過ぎから居酒屋に入り浸るなんて暇な大学生くらいしかいないし、その暇な大学生の中でも特に、ほどよいユーモアとほどよい知性、それと心地のよい孤独を持ち合わせた者しかこんな寂れた小さな店に来ないだろう。
つまりは僕たちだ。

「珍しいね、連続で誘ってくれるなんて」
席に着くやいなや無表情の店員はすぐにおしぼりを僕に渡し、なにも言わずに厨房に戻って行った。
「そんなこともないんじゃない?」
「そっか、先週はテストがあったからか」
一人で完結しながら、もう全部暗記しているのではないかと思えるメニュー表を流し見し、「枝豆頼もうかな」と言うと、「さっき頼んだからもうすぐ来るよ」と先輩が得意げに笑った。
「さすが」

先輩の声が合図だったかのように、すぐに枝豆がビールとともに運ばれてきた。
僕たちに関しては、1杯目のビールは注文しなくてもサーブされるのだ。
この店では、ユーモアと知性を兼ね備えた暇で孤独な大学生2人の顔を見たらビールを運ぶ、というアクションがオートマティックに設定されているんだろう。

「先輩は昨日あの後帰れました?」
ジョッキ同士を軽く合わせて乾杯をする。
先輩も僕も乾杯をしたら長い1口を飲むという設定なのか、自動的にゴクゴクと喉を鳴らし、あまつさえ「プハー」なんていうビールのCMに出てくる俳優よろしく息を吐きだしてから、ようやく質問の答えが返ってきた。
「終電逃したんだから帰れるわけないじゃん!友だちの家に泊めてもらって、もうそのまま今日はシャワーも服も借りて1限出たよ」
枝豆をつまみながら差した指の先には、たしかに昨日の服が入っているんだろう、いつものトートバッグがぱんぱんに膨れている。
「うわ」
「うわ、じゃないよ!君はいいよね、ここから歩いて帰れるんだから」
「まぁそうは言っても僕もあのあと1時間くらいかけて家に着いたんですけど」
「え、そんなに遠かったっけ?」
「いや、調子よければ30分くらいで着くけど、昨日酔いすぎてどう歩いたのか記憶にない」
自嘲のつもりで少し笑ってみせると、先輩の方がよく笑った。
「昨日だいぶ飲んだもんね~」

「いや、でも昨日は絶対あのとき『あと1杯』って僕が言わなかったら2人とも余裕で帰れたよね。一言余計だったわーごめん」
自分の口からスムーズに反省した声音が出たけれど、これも所詮ポーズを取っているだけで、本心ではないのだろうか。
わからないけれど、先輩はいつも僕が謝ると、困ったように眉を下げて「いいよ別に」と優しく笑う。
この表情の意味がわからなくて、なんだかいつもそわそわしてしまう。
見ていて悲しくなるような、腹立たしくなってくるような、よくわからない感情が沸いてくるから、いつもなんとなく先輩の目を見ているようで、その頭上に飾ってあるダリの偽物の絵を眺めるようにしている。

その絵は安定しない線だけで林檎やテーブル、時計が描かれたもので、悪く言えば子どもの落書きのよう、でも良く言えば、特にその時計なんかはあのダリの象徴的なモチーフを似せたように見えなくもないから、僕たちは「ダリの偽物」と言っている。
どういうつもりで安さが取り得の居酒屋の壁に飾ったのか、店主の意図はまったくわからない。

「とりあえず今日は絶対終電逃さないようにするよ」
「そういやさっき友だちに昨日この店にいるの見かけたって言われた」

同じタイミングで声が重なったから、一瞬、頭の中で自分の声を排除するという作業をしたうえで、また同時に「そうだね、気をつけないと」「へー同じクラスの子?」と発した。
そこで顔を見合わせてふっと笑い、一度リセットするためにお互いビールを喉に流す。

「同じクラスじゃなくて同じゼミの奴」
僕の方が先にジョッキをテーブルに置いたから、話も先導することにした。
「あ、海馬くん?」
「いや、内田ってやつ」
特に他意はなかったのだけど、なんとなく顔を見ずに枝豆の皮を丁寧に剥いてから口に放ると、その動作を見守っていた先輩は少しだけ笑って「そういう感じ」と言った。
「そういう感じ?どういう感じ?」

「いや、君はみんなと仲良くしているようで、ちっとも仲良くならないよなーと思って」
くすくすと音を立てて笑む先輩の顔は本当に優しくて、いつもこうして笑ってくれたらいいのに、なんてばかげたことを思ってしまった。

先輩には僕を不安にさせる顔をしてほしくないなんて、どうしようもないエゴだ。
先輩の言葉というより、僕のそんな考えがはずかしくなって、口の端だけでへらっと笑うと、それを見た先輩は「まぁ私には心を開いてくれてるようだからいいけどね~」と大人みたいな表情を浮かべた。

たしかにと納得する気持ちと、素直に認めたくないという気持ちが交錯して、僕は顔の準備すらできない。
教授に怒られたときの内田もこんな気持ちだったんだろうか。

「じゃ、なんかおもしろい話して」
僕の気持ちを察したのか、それともいつもの思いつきか、先輩はそう言っていたずらっぽく笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?