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221004_日々のカラダと私と

物質世界で生きるためには当然、肉体が必要となってきます。

そして自分と他者や社会との関係で生きるには、思考や感情、行動が必要になってきます。まず前提となる肉体の管理は基本的に自分が行うものです。人間ドックや健康診断、病院などの医療機関に自分の健康を全て丸投げ依存するのは個人的に論外な肉体の扱い方だと思っています。

まず自分の健康の定義を他者が決めた健康の定義と一致しているのか?というとそこは違うでしょう、という話です。他人から言われた【あなた・・・〇〇の数値が異常で危険水準です】と言われて真に受けるのはどうなのか?何1つわかっていないから真に受けてしまうのではないか?自分の人生はそうやって他人や専門家に丸め込まれて簡単に終わっていくものなのか?というのはよく考えたいところです。勿論、医療機関を利用するというスタンスはありですが、丸投げは自身のカラダを機械のように扱うことに結びつくため生命としての役割を果たすことはないでしょう。

そしてカラダに付随して、思考や感情なども日々セットで起こってきます。日本の社会で生きる人たちは現代だと感情というものを抑圧しがちでそれ故、感情というものを避け怖がり、よくわからなくなっているところがあります。やはり、感情というものを良く知るためには感情が起こっていることを把握しておく必要があります。感情を認識した瞬間以前に感情が起こっていることが観察するとわかってきますが、じゃーその後、感情がずっと続くのか?と言うと【そーでもないです】。

ネチネチって言葉がありますけど。

ネチネチって響きからすると感情は本来、さらっと流れていくものなんだけど、ネチネチってしていてひっついてくる様を言っているんですかね?ネチネチしている状態は言ってみれば感情でない状態、感情に似たようなものをずっと持ってしまっていることではないか?ということで。それ感情じゃないやん、ということになろうかと思います。

仲良かったカップルが別れた後に、こういうネチネチした感情が男女のどちらかに残っているケースが見られますけど。引きづっているものがあるということになりますが、引きづっているのは感情ではなく、記憶とか思考ですよね?感情に似せた記憶、思考をずっと持っている状態が当てはまると思います。

これに氣が付けるとまた次の新たな瞬間に飛び込めると思いますけど。

やはりそのためには日々のカラダのケアと。思考や記憶、感情の特性の把握、それが自分の内側でどのように展開されているか?よく氣が付いていることですかね。そこはカラダと同じく【しっかり自分自身の眼で観ろ】ということになります。丸投げするなよってことですかね。

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クリスタル・フラーレン

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