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ミゼラブルなのは誰か 島的感想

映画を観てきました。試写会に呼んでくださった、KTさん、ありがとうございます。

見終わったあとに、呆然としてしまいました。で、最近、ずっと考えていたことがあって、そこでFBで議論になったりしていました。

その時「オーストリアの劇作家グリルパルツァー は、ヒューマニズムは国家主義を経て野蛮に至る」という言葉がコメントにあって、私はこの映画を観たあと、ぼんやり思い出していました。

この映画の若者たちが「野蛮な行動」「粗野な民主主義」に向かっている様子が描き出されているから。そこには、暴力がつきまとう。


その後のシンポジウムでは、監督・脚本 ラジ・リ(Ladj Ly)のバックグラウンドが語られた。

森千香子 さん(同志社大学 社会学部 教授)望月優大 さん(ライター/ニッポン複雑紀行編集長)安田菜津紀 さん(フォトジャーナリスト)が登壇して、さまざまな視点からの意見が非常に興味深かった。

森さんのフィールドワークの話と望月さんの構造的な問題提起と在日の父親を持つ安田さんの立て板に水な言葉の数々に圧倒されつつ。

登壇者の方々が何度か熱くなって脱線したけれど、私は一番それが面白かった。熱く語る人がいないシンポジウムはあとからテキストでいいと思うので。

まず「レ・ミゼラブルから150年たっても、その土地では変わらないことがる」というような文脈だった。ざっくりした言い方だけど、弱い者たちの連携は「結束」でもある。そして、なぜ暴徒化するかという背景も話された。私は、時折、ナショナリズムと言う言葉が頭のなかにちらほら浮かんだ。

正直、私は、子どものころから集団とかスポーツに対する熱狂が生理的に嫌いで、冒頭のフランス国旗を身にまとって狂喜乱舞するフランス人には恐怖を感じました。良くも悪くも、暴力を想起させるから。

この映画は、フランス、モンフェルメイユ(セーヌ=サン=ドニ県)出身で、当事者が描いた物語であるということが、極めて新しいと思う。

「差別」「移民」「格差社会」などなど、現代社会が世界的に抱える問題は、今や日本も他人事じゃないと思う。

弱者と社会で居場所を失った人々、特に若者がどうなるのか、という意味では最悪と言えば最悪な物語で、これが実際に起きているということにも恐怖する。

主人公ではないが、クリス演じるアレクシス・マネンティ(Alexis Manenti)の演技が私には響いて、調べてみると、監督と古くの友人で、脚本にもクレジットされている。

仲間内で、きっとかなりの同じ経験をし、対話を深め、信頼を育ててきたのだと思う。じゃないと、あんなヘイトな役は断ると思う。

彼らのすごさは、ラジ・リ監督が立ち上げたアーティスト集団Kourtrajméやそのラジ・リ監督がその貧困地域のNPOで映画を学んだこと。そのNPOの人たちがいなければ、こういう作品は生まれなかっただろう。教育、現場の熱意、本人の努力の末とも言える。

こういう作品を見た時、芸術は現実を凌駕するし、芸術の本質は渾身のメッセージであると心から思う。

勧善懲悪のスカッとした映画ではありませんが「いやー、人間はそうなるだろうよ」と思える。これは、親子で見に行ってほしいな、と思う。私は、劇場で高2の娘ともう一度見たい。日本では権利について話し合う機会があまりにも少ない。特に女性は。

それは、私が子育てをしていて、いつも思うことだ。娘の社会にまみれた発言に「常識をうたがえ」と話すけれど、なかなか伝わらない。「勇気をもって発言すること」もそうだ。

問題提起をすると眉をしかめる人がいる。なぜなら、日本社会には、その立場にあった発言以外は無粋だという共通認識があるからだと思う。

問題提起は抗弁と捉えるふしもある。「何様のつもり」とというやつだ。そして、問題提起すると、誰がその責任を負うかという風向きになる。

本来は、問題の矛先は個人にはない。仕組みや成り立ちにあったりする。

その問題があるからこそ、この組織やグループ、共同体がスムーズに進まない。ならば、問題提起をして、解決していこう、というものなのに。なぜか、言い出しっぺという言葉があるように、問題提起した個人に問題が跳ね返される。

その面倒くささをわかっているからこそ、日本は個人としての発言は誰もが慎重になる。

ちょっと話はずれるが、ツイッターとか、本名じゃないところの罵詈雑言ヘイトスピーチ的なものが減らないのは、本質的な問題をおざなりにしているからだと思う。ツイッターは、日本は諸外国に比べ利用人口が多いそうだ。匿名的な陰口の類が生活の中にたくさんあるからかもしれない。

でも、ことを荒立てず、誰もが口をつぐめば、なんの進歩もない。それどころか、特に若者の生きる熱意を削ぎ、恨みを蓄積させ、いつか暴発する。

かといって、論点のない暴力的な対話は、ただの暴力と何も変わらないとも思うけど。

この映画のすごさは、当たり前だけど、ひとりひとりが弱い人間であるということをラストに目の当たりにすることかもしれない。

本質的なところまでの熟考、熟議などが必要で、時間のかかる民主主義。そのためには、権利そのものに対する学びが必要。そういうことを目の当たりにしたような。

昨今のパワハラ、セクハラ、と名前を変えて、パワーゲームを短絡的に語るのも違う気がする。一般的に差別を多面的に語ることも許されないくらい、対話があるとは思えない。

そして、貧しい共同体的な日常を壊すのは、ひとつの暴力的な行為だったりする。この映画を見るとそう思う。

それは貧しい共同体だけで行われるのではなく、実際は普通の社会でもそうだと思う。それが今はわかりやすい形ではないけれど、グローバル経済や貧困の問題と直結している。

日本が先進国だと言うのなら、本来の熟考、熟議を、さまざまな階層で行うべきだけど、仕組みはまだまだ。国家は、重い腰だし。

日本社会は、言葉という側面においては「言ったもん勝ち」になる傾向が強いように思う。政治とか社会問題など大命題においては思考停止になりやすいからなんだろうか。この人が言うなら正しい、とすぐにのっかるからか?「〜らしく」というのが重宝され、人間関係が円滑に行きやすいから?

まぁ、若者たちの間では随分変わってきたようにも思いますが。

政治と宗教とプロ野球の話はご法度、笑。っていうのに似てる。暮らしのなかの会話では、エンターティメントやらゴシップが多い。国際政治の話なんかしたら、難しい真面目な人あつかいだものなぁ。

政治の話や男女同権の話を一般人がすると、私などでも、すわ政治活動、フェミニズムと捉えられる。人が生きていく上で、結構根本的な問題だと思うんだけど、みんな、こどもに聞かれたらなんと答えているんだろう・・・。

そういう意味で、民主主義とかそういう話の前に、権利を改めて考えるってことが子どもたちとできる良い映画だと思う。

ちょっと昔は、グローバリズムの中では国籍や民族は、多様性があり、自由度も増すと、世界が考えた時期もあったと思う。でも現時点では経済に巻き取られ、大きな格差が生まれている。ここで、改めて権利や経済、政治の仕組みについて、まずは大人が受肉化して具体的に対話の準備をする時期が来たのだと思う。

私事ではあるけれど、宮古島や沖縄のように、国境という辺境にいる存在は、政治や経済、子どもの頃からいやがおうにも権利について考える機会が多い、ただそれだけのことだと思う。

だからこそ、類を見ないナショナリズム的な若者を沖縄では結構見る。今回のツイッターでの日本青年会議所のプロパガンダ用に使われている写真とか。顔を晒している若者が沖縄の若者というのも非常に納得がいく。

宮古島のような離島は、貧困と格差は長らく固定化していた。地域社会においては役人は世襲制みたいなもので、特権意識も代々なので、あまりにも自然にとんでもないことを言う人がいる。記憶をたどれば、役所の試験も30年前くらいにはじめて平良市がはじめたくらいじゃないかな・・・。

それは、都会の人が地方の不自由さを馬鹿にするときに鼻で笑う時代錯誤的なアレ。私もそういうものから離れたいと思うからこそ、島から出た。

それまでの歴史的背景からも、現代の個人的事情からしても、残らざるを得ない島人は生きてきたことを考えると、共同体を強固にすることで食べてきた、生きてきたとも言える。私たちの時代は、一般のひともとりあえず外に出られるようになった世代だと思う。

たまに、その側面を、現代日本の文脈で語られることに、私は違和感がある。母たちの娘時代は、まだガー(共同水汲み場、井戸でもない)から水を汲み出すような時代だっただから。戦後すぐなので、多分、サバ(ビーチサンダル)か裸足。

なので、普通のインフラもそうだけれど、教育的インフラが揃ったところから出発している人たちに啓蒙されることほど不愉快なことはない。私たちの時代はもちろん水道があったけれど、生活の中でインフラが整わないことで行政に文句を言う前に、自分たちでなんとかするという気概は脈々とある。

ある意味、この映画の若者たちは自分であってもおかしくない、と思うのだ。彼らの遊び方は、自分の子どもの頃を思い出すし、あのまま島にいたら、私は違う形でマウンティングしそうだからだ。

なので、島外から来て、上から目線で啓蒙するという立場であるということを自認している彼らこそが、人間の暮らしにおいてはインフラに依存的で、人間の生き方として空辣で、独立した個人としての意見がまったくなく、イデオロギー志向であることも多い。

沖縄に運動で来る人にそういう人が混じっているので、たまにがっかりする。口では、沖縄の応援をしているけれど、島の人間をあからさまに馬鹿にする人も多い。

証拠に、イデオロギー系の話で、反論すると「宮国さんはわかっていない」と聞く耳を持たない。対話すらできない。

そういう人から見れば、宮古は未開で、人も野蛮人にしか見えないにちがいない。まぁ、それでもいいのだけど。私には私のやり方がある。

何度か書いているが、二十代はじめの頃、東京から移住してきた自称イデオロギー系インテリから言われたことがある。

「お前は東京でいい暮らしをして、宮古にいるおじいやおばあの気持ちがわかっていない」

あほか、と、今の私なら一蹴できる。私が東京でいい暮らしをしているかどうかは、あなたの知るところではない、と。どこで、そんなことを聞いたかはわからないが、事実に反していたし、笑。

でも、まともな反論はできなかった。そういう意味では私が他人に失礼なことを言うことは、長期的に見て、個人的にも共同体的にも良くないということを叩き込まれていたからだと思う。

宮古にいるおじいやおばあは、私に生きるチャンス、自分で稼ぎ、自立していくすべを選ばせてくれた。自分たちの時代にできなかったこと、日本人と肩を並べて教育を受け、働き、認められ、貧困から脱出し、次の世代につなげなさい、ということを「若者を島から出す」という行動で示してくれているのだ。

今はもう、日本にはその価値すらもなしなような気がするが、当時はそうであった。

先にも書いたが、当時の私は、その人にはっきりと伝える能力がなかった。あなたのイデオロギー的な一方的な見方ですよ、とは言えなかった。口惜しい。悔しいというよりは、その当時の言葉や言論に対する自分の不勉強がふがいない。

そして、大きな原因は恐怖からだったと思う。この人に逆らうと、いろんなところで有る事無い事言われて、そして、それが本当になっていくという田舎特有のホモソーシャルな世界があることをよく知っていたから。

私は、そんな30年近く前のことを、今でも昨日のように思い出す。でも、彼が率直に(えらそうだけど)言ってくれたことによって、そういう目で沖縄の若者を見る人もいるということを知った。

東京に来て、おおかたの人は優しいが、それは距離があっての優しさでもあったりすることもある。当たり前といえば、当たり前。でも、良かったことは、さらにその先を議論するような人たちにも出会えたことだ。

今なら宮古島にもそういう人はいるかもしれないが、その時はあまりいなかった。「女のお前に何がわかる。島にも住まないで、何が宮古の文化活動だ」とどやされたことは一度ではない。

島の人からもそんなことを言われるなんて、と泣いたこともあったけど、今は一滴も涙は出てこない。出てくるとしたら、その人の考え方を作ったその環境に思いを馳せ、心が痛み、涙がこぼれる。

そういう環境こそが「ミゼラブル」そのものだ。

で、宮古は変わったか。

いっしょにそのおじさんに叱られていた友人は、宮古に残った。彼女は一言も言い返せず泣いていた。そして、今も島の中で起こる「固定化された階層」による被害に翻弄されていると聞いた。笑って話せるだけまだいいかもしれない。でも、私ならそんな話してもわからない人は司法に訴える。

昔なら代わりにやってあげたのかもしれないけど、今回は、相手の確認もとれないので、友人のその言葉だけをまともに受けることはしない。

共同体はすべてを解決しない。弱い人間をますます弱くすることもある。なぜなら、誰かがかわりにやってくれることに慣れきっている人も多いからだ。

映画から離れてしまったけれど、この映画を見て、私が熱く語れる事があるとしたら、自分の体験をもとにこうやってエピソードを積み重ねていくことだけかもしれない。

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