20180410 忖度して言えなかったこと 島的ノブリスオブリージュ

昨日は朝早くから、動く。いつも動いているのだけど、なんでだろう。バタバタしてしまう。それは、私が電話がかかってくれば、メッセンジャーがあれば、メールがあれば、その対応をできるだけすぐにやってしまうからだ。

おかげで、いっしょに仕事をしている人には多大な迷惑をかける。優先順位がコロコロ変わる。目の前に困ったひとがあらわれたとして、先の約束があるからとは言えない、見捨てておけない、そういうのに近い。

なので、私の周りの人は、私のその性質を慮ってつきあってくれる。ありがたいです。

昨日は、朝早くから、ATALAS blogで今週から連載が始まる「日本で最初にアニメを作った男 下川凹天」の記事の打ち合わせ&作業をする。金にならないことを、みんながやってくれるブログです。「宮古島の文化と歴史」と言ったって、地味すぎて、ヒキがない。

でも、口を酸っぱくしていいたい!本当に面白いんだよ、島の文化と歴史は。

このnoteを読む人は、日本語なので、そうだと思う。日本と関わる人は関係ながあるのだ。世界の離島は、日本です。

その日本の問題は、離島に凝縮されている。今の社会の閉塞感って、激動の歴史を持つ離島を見るとケーススタディになる。離島の問題を見れば、ちょっと客観視出来ると思う。政治も社会の仕組みもすべて、同じように問題が先に勃発している場所だ。インバウンドも、ビットコインも、加計学園もすべて内包しています。

まぁ、これはいろんなところで何度も書いているので、時間のある人は私の名前でググってくれればありがたいです。

島では、高度成長期とかバブル、リーマンショック、インバウンドとか、そういうのもいっしょくたになって、この20年カオスってると思う。

私は、1992年ごろから宮古毎日新聞の東京での嘱託記者としていろんなところを見せてもらった。まず、東京に住む島の人にたくさん会った。まさか首相官邸や省庁でインタビューできるとは思わなかったし、実際の政治家の勉強会も何度か行かせてもらった。かと思えば、1000人規模の伊良部町関係者が集まる運動会に親子で参加させてもらった。ハンセン病の訴訟の時は、国会前の怒号の中で涙があふれてしょうがなかった。

島の普通の女の子だった私が、仕事に育ててもらった。

同時に、アメリカから勉強も何もしないで帰ってきた私に、仕事を紹介してくれた宮古の人がいた。おかげでジャパンアクションクラブの映像制作部で時代劇を作ったり、また、その縁で、現在の朝ドラの「半分、青い」の脚本家・北川悦吏子さんのもとで、20代は丁稚していた。フリーランスで、伊勢神宮の撮影行ったり、教科書の指導要綱に使う映像を撮ったり、バーリトゥードと言われるイベントを仕切ったりした(沖縄の女の子三人で5000人以上集めた)。言われる仕事はなんでもやった。

おかげで難病になりました。ですが、家に引きこもっている間に、ずっとくすぶっていた事が解消した。宮古の本を作ったのだ。

宮古ではハリーポッターより売れた「読めば宮古」という本を、宮古関係者を集めて編集執筆できたし、娘も三人産むことができた。諸事情により、今は実質ひとりで育てているので、四苦八苦していますが、それにしても、毎日駆け抜けています。

振り返ってみると、本当にバラエティ豊かな記者時代でした。終止符を打つことになったのは突然でした。いや、私の中では、まだ完全には打ってはいませんが。

数年前に、新聞社に組合が出来て、会社と記者が裁判漬けになった。そのあおりで契約が打ち切りにされました。契約書があるわけではないので、しょうがないのです。島の仕事は、契約書なんていらないと思う。なぜなら、元社長が私に悪いことをすることはありえない。偶然なのだけど、子供の頃から遊んでいた友人のお父さんがその当時の社長になっていた。

記者を頼まれて、はじめて宮古で挨拶しに行った時、あれ、見たことある人だなと思ったくらいだ。私には新聞社の社長なんて遠い存在だった。その後、とてもかわいがってくれた。だからといって、えこひいきをするような人ではないので、死ぬほど怒られたことも何度かある。

組合問題で、みんなが疲弊していった。今は、本土の記者も一人くらいで、女性の記者は皆無だ。今も新聞は毎日出ているので、みんな頑張っているんだと思う。

今思えば、解雇という言葉はなかったが、社長は会社のゴタゴタに巻き込まないようにしてくれたのだと思う。社長が退いて、後任のひとと何度か話し合ったけど、いろんな意味で火種になるような私を切りたがっていた。私は、それで良かった。そういう人もたくさんいる。宮古だけで完結したいし、刺激を与えたくない人。

その間、宮古はみるみるうちに変わっていった。取材を始めた当時は、観光客数はたぶん2,30万で喜んでいたくらいだ。10年前は、40万も届いたりとどかなかったり。

今年度は、多分100万人を超える。

私は、この数年、とても焦った。

おかげで、東京から島に伝えなきゃいけないニュースは伝えられなくなった。島にいると、日本のニュースは関係なく思える。でも、違うんだよ、日本の真ん中で、宮古のことは勝手に決まっていくんだよ。嘘みたいに。沖縄のことだって同じ。誰も悪気があるわけじゃない。ただ自分の都合の良いようにしたいだけだ。

私は何十年もその様子を見て、苦しかった。だからこそFBで発信するようになった。いろんな活動もした。何度も何度ももうやめようと思ったけど「誰かがやればいいや」と見て見ぬふりは、もう出来ない。

それは、子どもを育てることで一層強く思うようになった。せめて彼女たちに恥ずかしい生き方はしたくない。「自分さえよければいい」という親の姿を見せるのは彼女たちに対する侮辱にも思える。

こういうことを、今まで、きちんと書かなかったのは一応、忖度していたからです。誰か傷つく人がいると悲しかったから。今はもう時効だと思う。ある意味、すべてが変わってしまったから。

外からの影響で、人はどんな風にも変わる。島に別の物差しを持ち込むことは、島の人は慎重にしなければならない。

私が言わなくても、宮古の賢い人はきっと考えて行動しているはずだ。私はそう信じているし、実際、そういう人たちを信頼しているので、彼らのやることに「自分さえ良ければいい」という風潮は感じられない。島的なノブリスオブリージュをきちんともって、島で生きている。

宮古毎日新聞の話に戻るが、組合化を進めた本土のひとたちが「沖縄に行って遊びたいから、沖縄で火種を作った」という笑い話をしていたそうだ。全員がそうではないと思うけれど、そう思う人がいても不思議ではない。有力な筋からなので、間違いないと思う。私自身もそういう人たちにたくさん会ってきた。

こういう人たちのいい加減さを島の人たちは知らない。もしくは知っていても黙っている。黙って、彼らの行動を見ていると思う。島は忖度だらけだ。

島の人が一番理解していないこと。それは、島にどれだけ価値があるかということだ。無料で沖縄に行けるなら、島にチョイ噛みしたいという人の多さを知らない。多勢に無勢なこともある。

島の将来なんて、彼らの人生には泡のような夢。東京の現実に戻れば、そこで困ってしまった人たちのことは、視界からも脳裏からも消える。

私は、もう死ぬほど会ったよ、そういう人。でも、そういう人にはっきりと言えなかった。何故か。それは、あきれて言葉にならないのと、逆に、そういう人たちがもっと本音を言うまで、付き合おうと思っていたから。有益な情報源でもある。悪意なく、リゾートと思う島と軽く遊びたいだけの人たち。

彼らにとってみれば、沖縄本島が、日本の愛人だとしたら、宮古島は飲み屋の姉ちゃんだ。石垣はクラブのお姉さんなのか。

言わなくてもわかるよね、最初からそのつもりだったよね、という無言のお約束で、迫ってくる。

ふざけないでほしい。

でも、そういう人もいるんだよな。卑しすぎる。

でも、でもだ。彼らは、島の精神性や歴史を知らないだけかもしれない。私だって、例えば、八丈島のことは知らない。

知らないだけだ。そう思う。そう思いたい。

訪ねた先に、自分と違う文化があるなんて、歴史があるなんて思わない、あったとしても自分たちが知らずに踏み荒らしているとは思わない人だっている。
でも、自分の地域のことも興味がない、根っこすら意識したことのない人たちに、他の地域のことを知れ!っていうのはおこがましいことでもあるのではないか、とも考える。

だからこそ「ありますよ」と伝えるのだ。文化と歴史を、精神性を発信するのだ。島からも東京からも。そういう人材を育てることだ。今は、わからないかもしれないけど、この努力は十年後、二十年後、もっと先かもしれないけど、実を結ぶ。

自分の足もとを学ぼう。そしたら、相手の足もとの大切さもわかる。それを島から発信していこう。愚直に。まっすぐに。

日本人が単一民族じゃないことなんて、ほんとはみんな知っている。親のそのまた親の、そのまた親の、私たちは多様性のあるバックグラウンドをもっているし、しきたりも常識も情緒ももっている。江戸っ子は三代、なんて言う言葉は、極みではないか。

まぁ、こういうめんどくさい私が言う、複雑性も持つ話を真剣に聞いてくれた人たちも私のまわりにはたくさんいる。ありがたい。私はこの人たちと一生友だちでいると思う。冤罪で捕まっても、実際犯罪で捕まっても、拘置所に差し入れに行きます、というくらい。

それは、島に住む同級生や友だちだったたり、島を離れた宮古出身者であったり、ママ友だったり、研究者であったり、宮古に住む移住者だったり、島に住んだことのある人だったり、もうそれは、年代も職業もさまざまな種類の人たちだ。

彼らの優しさと公平でいようという心で、私は支えられている。こういうことも書けるようになった。だからこそ、今のスタンスを崩さずに、今の活動に持続性を持たせるつもりだ。折れている場合じゃない。ほんとに。

などなど、結局、書くのに一時間かかっている。あぁ。友人の村中が頑張っているのを見て、すごく励まされた。フォローThank you。公開感謝。お互い頑張りましょう。

では、仕事に行ってきます。

と、思ったら、小1の娘が、現れた。仕事に連れて行きます。きっと許してくれる人だと思うので。こういう仕事に恵まれているのも有り難いです。

追記
急いで書くと誤字脱字が多いのですが、勢いを重視しました。

頂いたお金は、宮古島の歴史と文化の活動をするために使いたいと思います。