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蒲郡 石3:旅に出る前の足袋石

蒲郡市(がまごおりし)捨石町 捨石神社(素盞嗚神社)の境内社御鍬神社(おくわじんじゃ)の境内を出て、さらに御鍬神社に沿って奥に延びる参道を進みました。

捨石神社(素盞嗚神社)境内社:水神龍神八大龍王神社/大厳神社 役行者堂

やってきた参道は一般道に通じていた。
つまり裏参道だったのだが、裏参道が一般道に接する右脇に手水桶や、対になった常夜灯があり、常夜灯の間からは自然石を並べた石段が奥に延び、その突き当たりには自然の巨石の上に注連縄が巻かれた石が祀られていた。

捨石神社(素盞嗚神社)境内社:水神龍神八大龍王神社

注連縄が巻かれた石の左手にある卒塔婆のような細い石碑には文字が刻まれている。
その境内は御鍬神社ほど広くは無く、鳥居は見当たらない。

境内の外側から細い石碑に刻まれた文字を見ると、「水神龍神八大龍王神社」とあった。

捨石神社(素盞嗚神社)境内社:水神龍神八大龍王神社 社号標

何と社号標なのだが、その社名は3柱の神名を連ねたものだった。
しかも、その基壇は亀趺(きふ:亀の姿の基壇)だった。
亀趺は通常、仏教系の施設なのだが、捨石神社が神仏習合していたことによるものなのだろう。

改めて水神龍神八大龍王神社の石段を上がっていくと、突き当たりに設置された巨石の上に祀られていた石は1つだけではなかった。
頭頂が二股に分かれた陰石と思われる石は大小、2基が存在した。

捨石神社(素盞嗚神社)境内社:水神龍神八大龍王神社 たび石

基壇になっている巨石の上に建てられた2つの石の麓には、おそらく人為的なものだと思われる窪みが設けてあって、少し水が溜まっていた。
水鉢となっているようだ。
これも仏教系の施設だ。

石段脇に設置された三角形の大きな板碑には四方形の黒御影石がはめ込まれ、『捨石神社のたび石』の案内書が刻まれていた。

天正の頃、深溝の城主、松平家忠が、浜松に居る家康の所へ伺向する毎にいつも、ここに参拝して旅の無事を祈るのを常とした。
それから後、里人はこれを“たび石”と呼び、遠き旅立ちにはおまいりして家忠にあやかり無事を祈ったと伝えられている。

捨石神社(素盞嗚神社)境内社:水神龍神八大龍王神社 『捨石神社のたび石』案内書

もとは「陰石」であった石が、その形状が足袋(たび)に似ていることから、いつしか「たび石」として定着したものだろう。
小さい方のたび石は大きい方のたび石が右足の足袋だったことから、左右揃えるために、左足用のものが奉納されたのではないだろうか。
ただ、陰石、あるいはたび石がなぜ水神龍神八大龍王神社となっているのかは意味不明だ。

水神龍神八大龍王神社の境内からはL字形に折れ曲がった巨木が、コンクリートでたたかれた裏参道の入り口に向かって伸びていた。

捨石神社(素盞嗚神社)境内社:水神龍神八大龍王神社 神木

注連縄が掛っているので、神木のようだ。

裏参道を捨石神社拝殿前まで戻り、拝殿前から石段を見下ろすと、二ノ鳥居越しに捨石川を見下ろすことができた。

捨石神社(素盞嗚神社) 石段/ニノ鳥居/捨石川

気になったのは、上記写真の右端の石段の右手に太い注連縄の切れ端が廃棄されていたことだ。
だが、これは廃棄されていたのではないことが後になって明らかになった。

石段を麓まで降りると、左手に瓦葺入母屋造の重厚な屋根を持つ堂が奉られていた。

捨石神社(素盞嗚神社)  役行者堂

隣には小さな納屋が並んでいる。
また、捨石神社の杜の土手に沿って、石灯籠が並んでいた。

堂の正面に回ると、その軒下には「役行者堂」とレリーフにした文字を並べた扁額が掛っていた。

捨石神社(素盞嗚神社)  役行者堂

その堂内を見ると、白っぽい石の後背と一体になった役行者椅像が奉られていた。

捨石神社(素盞嗚神社)  役行者堂 役行者像

錫杖は手に金属の錫杖を持たせるのではなく、体と一体に刻んで表現してあった。
初めて遭遇するパターンだ。

もう1社の境内社である大厳神社に向かうためにニノ鳥居から、一旦表通りに出た。

目の前には捨石川に出っ張っていた巨石が一般道にも頭を出していた。

捨石神社(素盞嗚神社)  表参道脇 巨石

メロンパンの背中のように割れ目が入っている。

反対側から見てみると、社号標の前側から見たときは社号標の基壇になっていると思えた巨石は、巨石とは別の石を使用した、独立したものであることが判った。

捨石神社(素盞嗚神社)  表参道脇 巨石

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捨石川中から、一般道に尾根が延びている巨石ですが、いったい、地面の中にはどれほどの石が埋まっているのでしょうか。

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