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伊川津貝塚 有髯土偶 1:荒ぶる文

愛知県内の個人的な土偶調査は豊田市で終了と思い、すでに岐阜県にも手を広げ始めたところ、愛知県内の田原市でも土偶が出土している情報にぶつかったため、田原市を巡ることにしました。田原市から出土した土偶で頭部、あるいは体部がほぼ完全な土偶で開示されている土偶は「有髯土偶(ゆうぜんどぐう)」と呼ばれている土偶1点のみのようです。ただし、愛知県内で展示されている、その有髯土偶はレプリカで、実物は東京大学に収蔵されています。

愛知県田原市 古田町 田原市渥美郷土資料館/伊川津町 伊川津
田原市 古田町 田原市渥美郷土資料館/伊川津町 伊川津

昨年の9月下旬、有髯土偶の展示されているという田原市渥美郷土資料館に向かった。
豊橋市まで行って、国道259号線で渥美半島に入ると、古田町までは259号線1本。
古田交差点から259号線から離れて南の丘陵上に向かうと、560m以内で、JR愛知みなみ、図書館などと同じ敷地内に、田原市渥美郷土資料館があった。
田原市渥美郷土資料館は愛知県内の土偶の展示施設としては立派な部類に入る建物でした。

愛知県田原市 古田町 田原市渥美郷土資料館

郷土資料館入口脇の駐車場に愛車を駐めて館内に入ると、入口に職員は存在せず、見学案内をする職員一人が中学生の集団を引率して階段を2階の展示室に上がって行きましたが、それ以外の人は見かけなかった。
古代の展示物は入口右脇1室の一部で、壁に沿ったガラス張りの展示空間のみなので、すぐに有髯土偶を見つけることができた。

田原市 古田町 田原市渥美郷土資料館 伊川津貝塚出土有髯土偶

その土偶はほぼ円形の顔面ですが、厚みのある円形でした。

これまで愛知県内で出土した土偶で展示されているもののうち、初めて鼻が立ち上がっていて、二つの鼻孔まで造形されていました。
糸目の目と小さな穴で表現された口も記号的な線と穴ではなく、初めてリアルな顔面が造形された土偶でした。
目鼻口が円形の顔面の中央にまとまっていて、顔の輪郭と目鼻口のバランスが1902年にフランス人奇術師であるジョルジュ・メリエス監督がSFXを駆使して製作した着彩カラー・サイレント映画、『月世界旅行』の顔月に似ている。

着彩カラー・サイレント映画、『月世界旅行』

約12分のモノクロ版は以下。

ちなみに、オリジナルの着彩カラー版は音楽付でアマゾン・プライムで観られますが、ストーリーは字幕付の上記トーキー・モノクロ版じゃないと解からないでしょう。

愛知県で出土した土偶で似ているものは麻生田大橋遺跡から出土した土偶で以下の記事にしてありますが、有髯土偶の両耳は麻生田大橋遺跡出土土偶のように耳部に穴が空けてあり、紐を通して使用するようになっていたため破損した可能性がありそうです。

ところで、「有髯土偶」という名称ですが、「髯(ぜん)」は訓読み「ひげ」ですから、顔面下半分に刻まれた放射状の沈線が髭(ひげ)と判断されたんでしょう。
しかし、以下の有髯土偶と目鼻口の部位のバランスの酷似した千葉県の池花南遺跡や栃木県の三輪仲町遺跡から出土した鯨面土偶(げいめんどぐう)と比較してみると、有髯土偶も鯨面土偶ではないかと思われる。

左:設楽博己著『顔の考古学 異形の精神史』(2021、吉川弘文館)から引用
中:伊川津貝塚出土 有髯土偶
右:「魏志倭人伝を考える ―鯨面文身について―」(塩田泰弘)から引用

下記は目鼻口の表現は異なるが、やはり鯨面だ。

左:ニュージーランド マオリ族のモコ(国立民族学博物館教授の講演会の記録から引用)
右:青森県八戸市風張1遺跡出土 合掌土偶〈『土偶大合唱』P102 羽島書店)から引用〉

上記2つの鯨面は伊川津貝塚出土有髯土偶と同じように眉から鼻先までの天地の間だけ線というよりは縄文が入っていない共通点があるが、鯨面と呼んでいいものだ。
合掌土偶は唇にも点刻の表現で刺青が入っている。

さらに驚くことに、下記写真左の1930年のインド洋アンダマン諸島の原住民ジャワラ族のように皮膚に着色するだけでは飽き足らず、皮膚に傷をつけて縄文のようなマチエールを付けていた民族も存在する。

左:ジャワラ族(「https://ydnad1b.yaekumo.com/geimenbunshin.html」から引用)
右:シエラレオネ共和国 彫像(クラウス・ドナ製作『JA-人類の隠された歴史』から引用)

アンダマン諸島・日本列島・南西諸島・チベット高原ではハプログループD(Y染色体)が高頻度に観察される共通点があることが判っている。
また、ハプログループDはアジア・アフリカの極めて限られた地域で散発的に観察されることもあるという。
上記写真右はアフリカ大西洋岸に位置するシエラレオネ共和国の彫像で2,500年〜17,000年前という縄文時代が丸ごと含まれる時代に製作されたものだというが、流線型の鼻や尖った歯並びが爬虫類っぽい。
これらの鯨面に通じる顔面を見ると、それを「鯨面」と呼ぶことも含めて、人類の根源的な部分にはガッツポーズのような荒ぶる心を表明するものがあるのを感じる。
そして、それを遡っていくと、シエラレオネ共和国の彫像のように爬虫類ぽいものに寄っていく現象が明らかにある。
胎水の中にいた息子が生まれた瞬間には赤黒いオオサンショウウオのような姿をしていたのが、呼吸を始めた瞬間から15分ほどで肌がピンク色に変わり、猿人に寄っていったのを目撃している。
人類の生存期間は200万年にすぎないが、爬虫類ぽい先達の恐竜は1億6000万年も生存していた。
その期間からみて、恐竜は人類の物差しでは測れない方向に、はるかに知能が進化していた可能性もありえるのではないか。

田原市渥美郷土資料館の古代展示室に展示されていたもので、他に完全に原型が残っている縄文期の遺物は下記写真の石冠(せっかん)くらいしかなかった。

古田町 田原市渥美郷土資料館 石冠

石冠は縄文時代の磨製石器だが、下部の台状部と上部の頭部の間にくびれのある上記写真中央の石冠が基本的な形状だが、後列の2つの石冠のように微かなくびれしかないものの存在は初めて認識した。
ここに展示された石冠の全てが磨石(すりいし)の一種として認識できると思う。


田原市渥美郷土資料館から出土した伊川津貝塚(いかわづかいづか)に向かうことにした。

古田町 田原市渥美郷土資料館/伊川津町 伊川津

259号線の古田交差点に戻り、259号線を東4.2km以内に位置する泉駐在所脇の路地から南に入り、曲がりくねった道を300mあまり進むと、GoogleMap上の「伊川津貝塚」と表記されたポイントの南側に広がる畑地の南側の道路に出た。そこから「伊川津貝塚」と表記されたポイントを撮影したのが下記写真だ。

愛知県田原市伊川津町 伊川津貝塚

上記写真を撮影した時には畑の向こう側の土手に見える白い玉垣の手前の土手にポイントが表記されていたのだが、今見るとGoogleMap上のポイントは上記写真右手の森の奥に移動していた。
白い玉垣は伊川津神明社のもので、伊川津貝塚の案内板が現在の森の奥の伊川津神明社境内に掲示してあることが伊川津神明社に参拝して知ることになった。
撮影時に表記されていたポイントに向かうには伊川津神明社の社頭から玉垣外側の土手に入っていくしかないので、さっき通り抜けてきた伊川津神明社の社頭まで戻った。

愛知県田原市伊川津町 伊川津神明社

珍しい真西向きの社頭右脇には「村社神明社」の社号標があり、表道路から10m近く奥に石造の伊勢鳥居が設置され、並木に空を完全に覆われてトンネル状になった表参道がまっすぐ東に延びていたが、明らかな社殿が鳥居の左手の方に見えていた。

社頭に愛車を駐めて、社号標の右側に見える玉垣の外側に沿って草の茂った土手を進んでいくと、様々な雑草が生い茂っていた。
その土手には伊川津神明社の廃材ではないかと思われる石が3点ほど転がっていたが、その一つがホタル草の繁殖する中にあり、名古屋市内ではまったく見なくなってしまった大きなカタツムリの殻が留まっていた。

田原市伊川津町 伊川津貝塚 カタツムリ

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伊川津神明社の玉垣沿いの土手は奥の森まで行くと水路があり進めないようになっていたので、社頭に戻り、伊川津神明社内側に入っていくことにしました。

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