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麻生田町大橋遺跡 土偶A 61:八と叢雲

津島市明天町の金刀比羅宮(ことひらぐう)から同じ津島市内の南西わずか70mあまりに位置する、中野町 八劔社(やつるぎしゃ)に向かいました。ちなみにこの八劔社は通称「中野八劔社」で通っていますので、以降は「中野八劔社」とします。

レイラインAG(中野八劔社)
レイラインAG(中野八劔社)

明天町の金刀比羅宮の社頭から路地を南下して最初の十字路を右折し、路地を西に向かうと、90mも走らないうちに玉垣に囲われた南向きの社頭に出た。

中野八劔社社頭

鳥居は石造の台輪鳥居で、頭巾型の頭頂を持つ社号標には「八劔社」と刻まれている。
入り口は路地から短いがなだらかな傾斜が設けてあり、そこから1段高くした境内は細かな砂利が敷き詰められ、鳥居の正面奥10mあまりには拝殿が設置されていた。
社地の周囲は住宅に囲まれている。

玉垣沿いに愛車を駐めて境内に上がり、鳥居に掛かっている「八劔社」と金箔押しされた銅の社頭額を見上げると、広い額縁には叢雲(むらくも)が装飾されていた。

中野八劔社 鳥居(社頭額)

私見だが、この雲には意味があると考えている。
八劔神社は一宮市・岐阜県を中心とした中部地方の全域、そしてなぜか福岡県に多く祀られている神社だ。
その理由は、この神社が熱田氏を中心とした製鉄族によって祀られた神社だからではないかと考えている。
熱田氏を中心とした神社と言えば、最初に思い浮かぶのは尾張三宮熱田神宮だ。
この神社には熱田大神が祀られているが、その神体は三種の神器のうちの一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)となっているが、そう呼ばれるようになったのは日本武尊が東征で相武国あるいは駿河国で焼き討ちを受けた時、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)でなぎ払い、その草に向い火を点けて脱出した神話があるからだ。
スサノオは天叢雲剣をヤマタノオロチの八本目の尻尾から手に入れ、天照大神に天叢雲剣を献上したが、その後、子孫の日本武尊が東征に出発する折、伊勢神宮を祀った人物であり、叔母にあたる倭姫命(ヤマトヒメ)から天叢雲剣が日本武尊に託された。
中野八劔社の社頭額の雲の装飾は天叢雲剣を意識したものと思われる。
そして、八劔社の「八」は天叢雲剣が出てきた八本目の尾を意味していると考える。
つまり、八剱神社の総本社は熱田神宮だとみています。
しかし、Wikipediaの「八剣神社」の項目にはそんなことはまったく書かれておらず、「8本の剣を神体あるいは祭神とする」とか「素戔嗚尊(スサノオ)」、「大国主神」、「日本武尊」とするなどと書かれている。      

●八剱神社とは

まず、「やつるぎじんじゃ」と呼ばれる神社には「八剱神社」と「八剣神社」が存在し、「八剣神社」の中には読みも「はっけんじんじゃ」としている神社がある。
そして、体験的に愛知県の神社では祭神の説明としては熱田神宮以外の熱田神社や八剱神社では「熱田大神」ではなく、「日本武尊」としている場合が多い印象がある。
それは熱田神宮が熱田大神を天照大神ではなく、日本武尊と解釈し、そう公表していた時代があるからだ。
熱田神宮が熱田大神を日本武尊とするのには正当な理由が存在した。
日本武尊の最後の配偶者であり、熱田氏の出身者である宮簀媛(ミヤズヒメ)こそが日本武尊が亡くなったことで、草薙剣を熱田神宮として祀った人物であるからだ。

祭神として素戔嗚尊の名が出てくるのは天叢雲剣を手に入れ、天照大神に献上した人物であるからだ。
このことから伊勢神宮では熱田神宮とは解釈が異なり、熱田大神(草薙剣)を天照大神としている。
実際、熱田神宮には天照大神の荒御魂も境内社の一之御前神社に祀られている。

伊勢神宮と熱田神宮は荘園の所有権でも諍いを起こしているが、「熱田大神」の扱いでは両神宮が「一体分身の神」を祀っていることにして妥協している。
つまり、熱田大神は天照大神であり、日本武尊であるという考えだ。

いずれにせよ、熱田神宮を総本社とする尾張地域の熱田神社、八剱神社では草薙剣と日本武尊が関わっているとするのが基本的な考えだと思われる。

雲の湧き立つ社頭額の掲げられた鳥居をくぐって奥に進むと、瓦葺切妻造棟入の拝殿は戸と窓の無い吹きっぱなしの社殿だった。
なので、拝殿の奥に朱に塗られた本殿があるのが見通せた。

中野八劔社 拝殿

拝殿前で参拝し、拝殿内を通して奥を見ると、瑞垣で囲われた本殿と拝殿は屋根の葺かれた渡り廊下で繋がっているのが観て取れた。

中野八劔社拝殿内・渡り廊下・本殿.

本殿の瑞垣には朱塗の鉄の門が付いており、観音開きの扉の左右には丸に八の神紋がこれも鉄らしく、鋲で止められていた。

中野八劔社 丸に八紋

図らずも丸に八紋は名古屋市の市章と同じ紋であるが、名古屋市の市章は尾張徳川家の合印に由来するものとされている。

ところで、拝殿から本殿の裏面を通って、周囲を巡ってみると銅版葺流造だが、白壁で木部が朱塗の、弁財天社を思わせるような本殿だった。

中野八劔社 本殿

社地の西端には南北に玉垣が連なっているが、巨大なムクノキの切り株が転がっていた。

ムクノキ(切り株)

伐採されたのは1本だけでなく、複数の巨木だけが切り倒されているようだった。
気になったのは玉垣の向かい側の広い敷地が空き地になっており、何か建物が立つ予定があって、ムクノキのような落葉樹だけが嫌われたのではないかと想像させたからだった。
ムクノキの葉はかつての職人たちにとっては重要なもので、漆器や細工物などの研磨に使用されてきた天然の研磨剤であり、トクサなどより目が細かいので仕上げには無くてはならない樹木だったという。

同じ西側の玉垣に沿って、石造の献灯が複数並んでおり、大きな神社ではないものの、地元民には親しまれた神社であることが推測された。

中野八劔社 献燈群

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中野八劔社の北側には青龍山 吉祥寺という、現役の真言宗寺院が存在しています。中野八劔社のらしくない本殿は、もしかすると青龍山 吉祥寺の鎮守社が流用されたものではないかと、想像してしまいました。中野八劔社の西側の広い空き地も青龍山 吉祥寺の敷地のようで、その空き地と中野八劔社の間は青龍山 吉祥寺の参道となっており、路地に面した参道の入り口には「青龍山 吉祥坊」と刻まれた寺号標が立っていました。宿坊が存在しているのかもしれません。

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