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今朝平遺跡 縄文のビーナス 85:ウズメからオオウスへ

愛知県豊田市猿投山(さなげやま)の南側の登り口に位置する猿投神社の中門前で参拝しましたが、中門から左(西側)に延びている回廊の端には境内の西側に沿って丘陵が立ち上がっており、丘陵から湧き出る水の落ちる複数の滝が存在しました。その複数の滝から流れ落ちる水の流れる水路が丘陵の麓を南に向かって流れ、籠川(かごがわ)に流れ込んでいるのだと思われます。

愛知県豊田市猿投町 猿投神社 御手洗乃瀧/境内社厳島社/滝行場/境内社群

猿投神社中門から左手(西側)に延びる回廊の端には竹を組んだ垣根があり、そこには2条の滝が落ちていた。

豊田市猿投町 猿投神社 御手洗乃瀧/境内社厳島社

上記写真は前日に降雨のあった2012年10月に参拝した時に撮影したもので、水量が多く参拝のために手を清めるには水路の中に降りる必要があって、砂地を辿って近くまで行ける右側の滝しか利用できないだろうと思われた。
水源は竹垣の向こう側で、どうなっているのか不明だが、1つの水路を2つに振り分けている可能性があることは、後で紹介する写真で推測できる。

この滝が御手洗乃瀧であることは、境内地図を観ていない者には判らない。
なぜなら、滝からは離れた少し下流に「御手洗乃瀧」と刻まれた大きな板碑が建てられており、その板碑のすぐ左隣に紛らわしい滝行場があったからだ。

豊田市猿投町 猿投神社 滝行場       「御手洗乃瀧」板碑      

上記の写真は数日、降雨の無かった2011年の7月に参拝に来た時に撮影したもので、滝行場の滝から落ちる水はごく少量だった。
そしてこの滝行場のすぐ右隣に「御手洗乃瀧」板碑が設置されており、その板碑の基壇には滝行と関係のある緋色の火炎を背負い、黄金の利剣を持った不動明王石仏が奉られていたので、誰しもこの滝行場の滝が御手洗乃瀧だと思い、回廊から流れ出ている滝が御手洗乃瀧だと思う人はいないだろう。
しかもこの滝行場が滝行場であることが判る人もほとんどいないだろうから、なおさらのことだ。
私はたまたま、これまでも滝行場を意識して観てきているので、なぜ滝行の水を御手洗に兼用しているのだろうと、気持ち悪く感じていた。
しかし、地図表記で御手洗の滝が回廊から出ている滝のことだと理解できると、おそらく、かつての御手洗の滝はこの板碑の脇にあったのが、水が枯れたなどの理由があって、2011年の場所に移されたのではないかと推測できた。

現在の御手洗乃瀧の、数日降雨の無かった2011年に撮影したのが下記写真だ。

猿投町 猿投神社 御手洗乃瀧/境内社厳島社

2条の御手洗乃瀧は手を清めるには適量で、水路の中に降りていって手を清められるようになっている。
瀧の水は水流になるほど量がなく、全部砂に吸い込まれているので、水路には降りていける状況だ。
ただ、現在の航空写真を見ると、回廊が改築され、回廊の左脇(西脇)に回り込めるようになっており、御手洗乃瀧は回廊に少し曲がり込んだ場所の丘陵の土手側に移されているようだ。

2012年の御手洗乃瀧の左手(西側)には「厳島社(いつくしましゃ)」の社頭額の掲げられた東向きの朱の鳥居を持つ境内社厳島社が丘陵の裾に祀られていた。

猿投町 猿投神社 境内社厳島社

現在の祭神は市杵島姫命(イチキシマヒメ)もしくは宗方三女神だと思われるが、猿投神社が猿投白鳳寺だった時代には弁財天だったと思われる、この厳島社に参拝するのも、瀧の水量が少ない時でないと社前には渡れない。
このこともあって、現在は厳島社に参拝できるように回廊前部分だけ水路を埋め立て、水路部分には水路に落ちないように手摺が設けられているようだ。

2012年にやって来た時にはは回廊の西側には立ち入れなかったので、中門の東側に向かった。
中門の奥には拝殿と本殿が連なっていたが、本殿の脇には5社の境内社が並んで祀られていた。
うち4社は銅板葺の回廊に格子戸を締め切った門が設けられ、門には社名表札が付けられていた。

猿投町 猿投神社 境内社熱田社

上記写真は境内社熱田社の門だ。
ここに熱田社が祀られているのは、明らかに鉄器とオオウス&オウス兄弟の結びつきによるものだ。
なぜなら、熱田社の神体は猿投神社の左鎌に対応する草薙神剣であり、草薙神剣を熱田神宮に祀ったのはオウス(日本武尊)の妻の宮簀媛(ミヤヅヒメ)だからだ。

熱田社の格子戸から回廊内を見ると、正面の熱田社と左手の本殿の間には切れ目はあるが白壁の築地塀で仕切られていた。

猿投町 猿投神社 本殿/境内社熱田社

築地塀の本殿側にはさらに並木が植えられていて、本殿を囲っているが、銅板葺神明造の屋根には、やはり女神を示す内削ぎの千木が乗っている。
祭神に関しては何らかのすり替えが行われているのだろうと推測した。
境内社熱田社の銅板葺神明造の社の屋根には5本の鰹木と外削ぎの千木が乗っており男神(熱田大神)を示している。

熱田社の右隣の塞神社も銅板葺神明造で6本の鰹木と内削ぎの千木が乗っており女神を示している。

猿投町 猿投神社 境内社塞神社

塞神社(さいじんじゃ)は珍しい神社だが、総本社は長崎県壱岐市らしく、祭神は天鈿女命(アメノウズメ)と猿田彦命(サルタヒコ)が一体となった猿女命(サルメ)とされているが、場所によっては猿女ではなく、天鈿女命、もしくは猿田彦命が祀られている例があるようだ。
ここの鰹木と千木は天鈿女命を意識したものなのだろう。

塞神社の右隣には銅板葺流造の八柱神社(やはしらじんじゃ)が祀られていた。

猿投町 猿投神社 境内社八柱神社

その祭神は五男三女神であることが分かっているし、もっともここから近い豊田市西中山町にも祀られている神社なのだが、なぜか、愛知県内の数社の八柱神社を検索しても、どこも祭神を紹介していない。
その理由が判らない。
「八王子神社」や「誓約神社」で検索すると、直ぐ五男三女神が紹介されているのにだ。
漢字表記だと記紀で当て字が異なるので、以下尊称を省略したカタカナで表記しておく。

・アメノオシホミミ ( 男神:天孫ニニギの父)
・アメノホヒ
(男神:出雲国造家の祖)
・アマツヒコネ
(男神)
・イクツヒコネ
(男神)
・クマノクスビ
(男神:アマテラスの子)
・タキリビメ
(女神:オオクニヌシと結婚)
・イチキシマヒメ
(女神)
・タギツヒメ
(女神)

この八柱神社は旧い地図を見ると、回廊内には祀られてなく、回廊の外側、四方殿の東側、境内の東端に祀られていた境内社であることが分かる。

現在の境内社八柱神社の右隣には銅板葺流造の大国社が祀られていた。

猿投町 猿投神社 境内社大国社

大国社の総本社を東京都府中市の大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)とするなら、祭神は大國魂大神(大国主神)ということになる。

そして、大国社の右手前にはあきらかに後代に追加された御鍬社(おくわしゃ)が祀られていた。

猿投町 猿投神社 境内社御鍬社

銅板葺流造の小社だ。
御鍬社の総本社とされる伊雑宮(いざわのみや)の祭神は伊雑大神(天照坐皇大御神御魂:アマテラシマススメオオカミノミタマ)と迦具土神(カグツチ)である。
迦具土神は剣で惨殺された神である。
鍬が鉄器であるつながりから、ここに遷祀された可能性が考えられる。

ここ猿投神社に祀られている神のうち、本殿と総門の鰹木と千木の示している女神に当たるのは厳島社の元弁財天、御鍬社の天照坐皇大御神御魂、塞神社の天鈿女命だが、いかんせん、御鍬社はおそらく外部からここに遷祀された神である。
そして、上記3柱の女神のうち、天鈿女命は猿投神社の本来の神(客神)だった可能性があると思われる。
天鈿女命が祀られる可能性があるとすれば、関わった岩戸開き神話に関係した場所である。
猿投山という山は巨石が累々と存在する地なのだ。
だが、猿投山を祀った神社の祭神が芸能の神、天鈿女命では農耕・林業・鉱業を主としている地元の氏子が氏神として継続して祀ることができなかったことは推測できる。
芸能人を目指す氏子なんて、そうはいないからだ。
だから個人的にも天鈿女命を主祭神として祀った神社に遭遇することはめったにないのだ。
ここからは妄想の類だが、そうした状況で明治期に入り、猿投山山頂の墳墓が大碓皇子の墓として宮内庁の管理下に入ったことから、この地は大碓皇子が現在の氏子たちの祖先たちを指導してともに鎌を振るって開発した地であるという体を整え、大碓皇子を氏神として祀るようになった可能性があると思われる。
何しろ、記紀にも延喜式諸陵式にも猿投山山頂の墓が大碓皇子の墓であるとする記録は一切存在しないのだから。

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御鍬社に関してですが、神話では大国主神は天孫族に国土を奪われた関係に当たります。その大国主神を祀った大国社の脇に天孫族を代表する神である御鍬社の天照坐皇大御神御魂を祀っていいものかと思います。しかも、上位に当たる神、天照坐皇大御神御魂の方が下位の神である大国主神の脇に小ぢんまりと祀られているとは。


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