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麻生田町大橋遺跡 土偶A 176:ホタルの橋

岡崎市茅原沢町(ちはらざわちょう)の茅原沢神明宮の社頭に戻ると、神明宮社等前を東西に延びている県道37号線の向かい側のガードレールが37号線から矩形に折り曲げられていて、路肩のスペースが膨らませてあり、そこに「天然記念物岡崎ゲンジボタル発生地」と刻まれた記念碑が建てられていました。

天然記念物岡崎ゲンジボタル発生地碑

背後の薮の向こう側は男川(おとがわ)が流れていて、ここから下流110mあまりで、男川は乙川(おとがわ)と合流しています。

岡崎市 茅原沢町〜保母町
岡崎市 茅原沢町〜保母町

ゲンジボタル発生地碑前から県道35号線まで戻り、35号線を西に辿ると、420m以内の35号線の南側に乙川がクランク状に折れている場所があったので、何かあるかもしれないと、35号線から路地に入って乙川の流れている南に向かった。
その路地は住宅街の中を通っていて、80mあまり抜けていくと、住宅街の外れのコンクリート塀の白壁に「梁野(やなの)処理場」というプレートが掛かった施設に出た。

岡崎市茅原沢町 梁野処理場

梁野処理場の鉄格子門の中を見ると、瓦葺白壁の建物があって、外壁に石造と思われる水車小屋を描いたレリーフ額が掛かっていた。
かつて。水車小屋の在った場所なのだろうか。

岡崎市茅原沢町 梁野処理場 建物

この絵で水関係の処理場であることが推測できたのだが、見える範囲には水処理施設のようなものは見当たらなかった。
しかし後で調べてみると、農業集落排水処理施設であり、12ヘクタールの農地〈令和3年4月1日現在 利用戸:87戸(490人)〉のための排水処理施設で1日162トンの水を連続流入間欠ばっ気法+石ろ過で処理していることが判かった。
この近くの乙川に処理施設が設けてあるのだろうかと、処理場建物から間近の乙川川縁(上記地図内「乙川A」)に出てみると、乳白色に濁った結果、明るいエメラルドグリーンに変色した乙川が静かに流れていた。

岡崎市茅原沢町梁野

ただ、処理装置のようなものは見当たらない。
航空写真をチェックすると、上記写真の上流(上記写真左方向)80m以内に石を積んだ堰が設けられており、これが「連続流入間欠ばっ気法+石ろ過」装置なのかと思われる。
その部分に入っていく通路は存在しないので、やむなく35号線に戻った。
35号線を西に向かうと、60m以内の左手にクランク状の一部である乙川(上記地図内「乙川B」)が見下ろせた。

岡崎市茅原沢町梁野

川幅は最も広い足元あたりで60mほどだが、川床の左岸(上記写真右手)には土砂が幅広く堆積しており、実際の水面幅は20mもなく、その水路の途中にだけ、石に当たった水が白い波をあげている部分があるのだが、これも「連続流入間欠ばっ気法+石ろ過」と関係があるのだろうか。
航空写真を見ると、乙川のこの部分の両岸にはここまで存在しなかったような広い水田地が広がっているのだが、乙川右岸側(上記写真左手)の水田地は乙川水面よりかなり高く、左岸はそれより低いものの、水を取水するにはモーターで組み上げる樋門がどこかに設置されているはずである。

クランク状の乙川(茅原沢町梁野)部分脇から35号線を西に1.3kmあまり辿ると、乙川に架かった美保橋につながる小美町(おいちょう)の交差点に到達した。
その交差点から南に230mあまりで美保橋に出た。

美保橋上から上流側を眺めると幅20mあまりの水路の水は透明度が高く、石は水面下に透けて見えてはいるものの、水面上に頭を出しているような大きな石はほとんど姿を消している。

岡崎市 美保橋上流側

両岸とも護岸工事はされておらず、川縁は潅木、竹藪、雑草で覆われている。
左岸(上記写真右手)には森で覆われた尾根が連なっている。
両岸に緑色のワイヤーが張ってあるのは何のためのものなのだろうか。

この美保橋は、ここまでの乙川では見られなかった、鉄製の欄干を持つコストの掛かった橋で、欄干には鋳造されて空色に塗装された浮き彫りが装飾されていた。

岡崎市 美保橋 欄干装飾レリーフ

水性の草と水玉を図案化した装飾かと思っていたのだが、よく見ると円弧はホタルのお尻の光であることが判った。

岡崎市 美保橋 欄干装飾レリーフ ホタル

鉄の鋳造なので、ブロンズのようにシャープな表現は難しいらしく、ホタルが遠くから見ると葉っぱにしか見えないことから、円弧の意味が判らなかったのだ。
このレリーフ装飾は1種類だけではなく、ヘッダー写真のような「水流と川魚」をモチーフにしたものもあった。

橋上から下流側を見下ろすと、上流側の穏やかな水面とは表情が異なり、川床に沈んだ多くの石によって水面は波立ち、橋の下流50 m以内にも石が水路と直角に並んでいる場所があり、白い水しぶきが立っていた。

岡崎市 美保橋下流側

航空写真でこの部分をチェックすると、やはり人為的に石がここに集めて並べられているように見える。

美保橋の親柱のたもとにはスペースが取ってあって、黒御影石の表面を磨いて、文字を掘り、写真を焼き付けた『時の流れ』というタイトルをつけた記念碑が建てられていた。
美保橋が地元民にとっては重要な橋だったらしいことが伝わってきた。
焼き付けられていた写真は両岸にゲートの設けられた石橋であった旧美保橋の写真だった。

旧美保橋 記念碑 写真

旧美保橋も乙川に架かった橋としては、かなり立派なものだ。

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美保橋はともに山に囲まれて孤立している右岸の小美町と左岸の保母町を結ぶ重要な橋だったようです。乙川は保母町脇を通り抜けると、いよいよ山岳部を抜け、平野部に流れ出ることになります。

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