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麻生田町大橋遺跡 土偶A 179:淵を神体とする

岡崎市岡町(おかちょう)の乙川龍神めのうづ社ニノ鳥居に並んで設置された朱の鳥居があり、前回やって来たときと同様、その鳥居をくぐり、森の中に下って行きました。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 鳥居
岡崎市岡町
岡崎市岡町 乙川 まる岡新橋

1年前にやって来た時より2週間ほど早い季節だった。
樹木の葉は少なく、乙川に映る青空も明るかった。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 旧参道/乙川 

通路は石段に変わり、乙川に沿って、前回はもっと暗かった竜宮渓谷の淵に向かって降りていったのだが、今回はその淵の大半に明るい空が写っていた。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 乙川の淵

やはり、やって来る季節や時間帯で、印象は大きく異なることが判った。

前回やって来た時は淵に気を取られて、通路脇に立ち上がっている巨大な蔓状の幹は撮影していなかった。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 乙川の淵/藤

石段の途中から下を見下ろすと、かつて神体として淵を遥拝したと思われる鳥居の親柱の根元はそのまま残っていた。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 乙川/遥拝(?)鳥居跡

その鳥居跡まで下ると、そこより先の岩場は半分、水面下にあった。

岡崎市岡町 乙川龍神めのうづ社 乙川/遥拝(?)鳥居柱跡

淵には空が映っていて、水底はこちら岸の枝葉の影の映っている部分でしか見えないのだが、その川底は不透明な濃い緑で、うかがうことはできない。

岡崎市岡町 乙川 淵

乙川龍神社の境内の東側(上流側)は、上記の地図では正確に表記されてなく、小さな湾のようになっており、その一部に龍の頭が突き出している。

岡崎市岡町 乙川 奇岩

眼も口も耳も見方によってはちゃんとある。
下顎は濡れているので、ここが水に浸かっていたら、龍には見えないだろう。
さらに時間帯や天候によって、明解になったり、そうでなかったりするのだろう。

●瀬と淵

丸山町と岡町間を流れる乙川の流路は蛇行している。
ここのような蛇行流路ができるのは一つの河川の中では下流域で見られる特徴で、同じ流路の中でなぜ、瀬(水深の浅い部分)と淵(水深の深い部分)ができるのかというと、同じ水量であれば、流路がボトルネックになっている部分では水の流れが速く、白波が立ちやすかったり、皺のような波が立つのだが、その瀬の部分から急に流路が広がっていると、広がる直前の瀬が最も流速が速くなり、広がっている部分の石を流してしまうので、その部分は水深が深くなり、ここの淵のように、ほとんど川面は波が立たなくなり、

岡崎市岡町 乙川 淵

その川床は砂と礫(こいし)が主になる。
こうした瀬と淵が1セットになって連続しているのが河川だと言える。
ただ、現在のこの乙川の淵の下流側には丸岡堰堤(えんてい)が設けられているので、本来の河床とは河川形態が異なっているのだろう。

乙川龍神めのうづ社を出て、出来るだけ乙川の左岸(南岸)に沿った道を辿って660mあまり下流に移動すると、乙川にまる岡新橋が架かっていた。
まる岡新橋上から上流の竜宮渓谷の淵の方を眺望すると、それは左岸(下記写真右手)の陰に隠れていた。

岡崎市岡町 乙川 まる岡新橋上流側

まる岡新橋の上流側も水面は非常に静かで、両岸も正面も森と山に囲まれていて、自分の居るまる岡新橋以外は、人里感がまったく存在しなかった。

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「淵」というと、高句麗末期の大莫離支(テマクリジ:宰相)「淵 蓋蘇文(えん がいそぶん)」を想起してしまいます。『日本書紀』には「伊梨柯須彌(いりかすみ)」として記載がある人物ですが、高句麗語で「淵」は「水源」の意と推察されています。私見に過ぎないのですが、人名の「淵(えん)」は役行者(えんのぎょうじゃ)の「役(えん)」と無関係ではないような気がしています。

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