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伊川津貝塚 有髯土偶 2:両岸の猿田彦神

愛知県田原市伊川津町の伊川津神明社の西向きの社頭に戻り、石鳥居をくぐって、表参道に入りました。

愛知県田原市伊川津町 伊川津神明社/伊川津貝塚
田原市伊川津町 伊川津神明社/伊川津貝塚
伊川津町 伊川津神明社/伊川津貝塚

まずは本殿の天照大御神にご挨拶だ。
表参道に入ると、境内には全面に白っぽくて細かな砂利が敷き詰められていた。

愛知県田原市伊川津町 古伊川津神明社 表参道/二ノ鳥居

一ノ鳥居の10mほど先には一ノ鳥居と同じ石造伊勢鳥居の二ノ鳥居が設置されており、参道は両側の社叢によって心地いい陽影になっていた。
参道の突き当たりには4段の石段が設けてあり、段上に上る形になっている。

二ノ鳥居をくぐり、石段を上がると、コンクリートでたたかれた参道が延びていた。
参道右手の社殿の中央に至ると、参道は左に90度折れて銅板葺入母屋造の拝殿に向かっていた。

愛知県田原市伊川津町 伊川津神明社 表参道/拝殿/境内社覆屋

拝殿はやはり4段の石段上に設置されている。
境内には必要最低限のものしか設置してなく、簡潔にしてクリーン。
好い神社だった。
氏子の方々の気質と経済状況が反映されているから、こういう神社の地元では変なトラブルも少ないだろう。
引越し先で複数の候補があったら、その地元の神社をチェックすることは決定の要素になる。

拝殿前に上がると、軒下には大鈴が掛かっていて、「伊川津神明社」と金箔推しされた扁額が掛っていた。

伊川津町 伊川津神明社 拝殿 大鈴/扁額

大鈴を鳴らして参拝したが、境内に由緒書は掲示されてなく、後で調べてみると、天照大御神以外の神も祀られていることが分かった。

・天照大御神
・応神天皇
・素盞嗚命
・市杵嶋姫命

この祭神のラインナップを見ると、応神天皇だけ違和感がある。
ほかの3柱は娘と両親の関係だが、応神天皇は遠い子孫でしかない。
応神天皇を主祭神とする八幡神社が神明神社に同格の扱いで合祀されたことから、親子の間に子孫の応神天皇が割り込んだ形になったのだろうか。

拝殿内を見ると渡殿の奥の階段上に本殿の扉が露出していた。

伊川津町 伊川津神明社 拝殿〜本殿

神紋は天照大御神を示す菊花紋だ。

拝所を降りて拝殿の東脇に回ると、瑞垣内に銅板葺神明造の本殿が最奥の1段高い上に設置されていた。

伊川津町 伊川津神明社 拝殿〜本殿

渡殿の並びには屋内に複数の境内社を祀った瓦葺切妻造平入の覆屋が設置されていた。

伊川津町 伊川津神明社 境内社覆屋

前面にだけ美しい注連縄を張った吹きっ放しの開口部を設け、外部も内部も石垣風の基壇に乗っている珍しい社殿だ。
この注連縄は明らかに「美しい注連縄を張ろう」と意識して設けられたもので、綱の長さと太さのバランス、下がっている房と紙垂(しで)の配置場所が完璧だ。

覆屋内を見ると中央にだけ他より一回り大きな板葺流造の境内社が祀られていたが、「祖霊社」の表札が付いており、この地域の氏子の先祖を祀ったものだ。

伊川津町 伊川津神明社 境内社覆屋内 祖霊社

祖霊社の左側には2社が祀られていて、本社渡殿側には「金剛童子」という、神社では初めて遭遇するものが祖霊社をそのままスーケールダウンした境内社として祀られていた。

伊川津町 伊川津神明社 境内社覆屋内 金剛童子

金剛童子とは密教で金剛鏁菩薩(こんごうさぼさつ)の左に配され、仏法を守護する護法神のことだ。
真言密教では六臂青色身の青童子が配され、天台密教では以下のような二臂黄色の黄童子が配される。

黄童子 (精選版 日本国語大辞典 「金剛童子」から引用) 

社内に神像が納められているかどうかは不明だ。
伊川津神明社の拝殿前西側の生垣は剪定されており、その生垣に沿って複数の石灯籠が並べて配置されていた。
樹木の剪定と石灯籠は仏教的要素だ。
伊川津神明社の南側、畑地と道路をはさんで竹林山海蔵寺が存在する。
現在は曹洞宗寺院だが、愛知県の曹洞宗寺院の多くは密教寺院から改宗している例が多い。
もしかすると、海蔵寺に改宗された折に、廃棄するには惜しい金剛童子像が存在したことから、神像として伊川津神明社に納められた可能性もありそうだ。

覆屋内の金剛童子と祖霊社の間には猿田彦神社、祖霊社の右側には秋葉神社が祀られていた。

境内社覆屋の南には社地の東端に沿ってヤブランが紅藤色の密集した小花を咲かせた一角があって、そこに教育委員会の制作した伊川津遺跡の案内板が建てられていた。

伊川津町 伊川津神明社 ヤブラン/『史跡 伊川津遺跡 (県指定)』案内板

史跡 
伊川津遺跡                       (県指定)
この遺跡は、伊川津神明社を中心とした東西480メートル、 南北240メートル程のひろがりをもつ遺跡で、境内の南から 東北にかけての森が「伊川津貝塚」として県の史跡に指定されている。
遺跡の形成年代は、縄文時代の後、晩期で、貝層は2メートルにもおよび、貝塚からは各種の土器、石器、骨角器などが数多く出土し、なかでも有髯土偶(ゆうぜんどぐう)や叉状研歯(さじょうけんし)のある頭骨は全国的 に広く知られている。
数次にわたる調査によって、183体の人骨が発掘され、集石墓などの埋葬形態が知られ古代人の生活や、風習を知る上で、たいへん貴重な遺跡となっている。
  平成四年三月

伊川津神明社境内内 案内板(田原市教育委員会)

舗装された表参道を降りて、社頭に向かうと、途中左手に巨石と小型の石自然石を組み合わせた基壇上に石造の猿田彦神が祀られていた。

伊川津町 伊川津神明社 猿田彦神像

境内社としても祀られていた神だが、その姿はそのまま天狗だ。
伊川津神明社は直接関係はないようだが、ここ田原市最大の田原祭では天狗の舞が行われている。

ここ渥美半島の先端部の西側には伊勢湾を挟んだ向かい側に天照大御神を祀った皇大神宮も存在するが、猿田彦神を祀った二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)も存在している。

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伊川津神明社南の海蔵寺は愛知県西尾市吉良の海蔵寺、知多半島(愛知県半田市)の海蔵寺とともに持統上皇の発願によって建てたられた寺院だといいます。持統天皇は697年に軽皇子(文武天皇)に天皇位を譲り、生涯最後の旅の地に上皇として702年(大宝2年)に三河の地を訪れ、1ヶ月あまり滞在しているが、その目的や動向の記録は残されていない。そして翌年に没している。三河(岡崎)には実の兄弟である弘文天皇生存伝説が存在します。鸕野讚良皇女(うののさらら:後の持統天皇)の夫である大海人皇子(天武天皇)によって、弟の弘文天皇は誅たれており、生存していたとしても、天皇位を退位するまでは表向きで会いに来ることはできなかったと思われます。果たして弘文天皇、あるいはその子孫は三河に生存していたのでしょうか。


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