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中条遺跡 土偶A 17:勾玉の渦巻紋

ヘッダー写真は自邸庭に植えたゴーヤの蔓を撮影したもの。
綺麗な渦巻きを見つけるのは意外と難しかった。
縄文人は蔓性植物
(つるせいしょくぶつ)の先端に常に存在する渦巻きに力強い生命力を感じていたのではないだろうか。
このページでは前のページで紹介した刈谷市一ツ木町の芋川遺跡に発掘現場の写真が紹介されていた複数の渦巻紋を持つ縄文土器を紹介します。

●中条遺跡 土偶A

刈谷市郷土博物館には芋川遺跡で出土した

渦巻き紋のある縄文時代中期(約5,500〜4,500年前)の土器が展示されていた。

8縄文時代中期の土器 (芋川遺跡)

上記左側の写真は発掘現場写真と同じ面がこちらを向いているのだが、右側の説明図の土器は同じ土器の裏面が図になっている。
ただこの説明図の渦巻きは不正確で、この土器に存在しない渦巻きなのだ。
どうせなら、誤解を生むような説明図は使用しないでもらいたいものだ。
この土器の胴部には3種類の渦巻き紋が浮き彫りにされていた。
上記🅐の写真の渦巻きと下記の2点の写真の渦巻き🅑🅒だ。

9芋川遺跡縄文土器渦巻紋

《勾玉とは何か》
🅐の渦巻きは勾玉の尾が長く延びて渦を巻いている形をしている。
これまで縄文時代に制作された渦巻き模様で、こうしたものを見た記憶が無い。
勾玉の玉の部分は凸輪郭線で表現されていて、内部は窪んでおり、矢羽紋が入っているようだ。
勾玉は世界的に見ても日本列島と朝鮮半島の一部地域でしか出土していない特殊な形態をしたもので、後に三種の神器の一つのアイテムとされたものだが、なぜこのような形態になったのだろう。
胎児などの形に似ていることから、それらに意味を持たせて造形したものとする説を初め、諸説存在する。
しかし、個人的な体験から縄文人が見たものを、そのまま造形したものだと考えている。
なぜそう思うのかというと、自分が3度観たことがある形態だからだ。
そのうち2度は瞑想中、1度は名古屋市内にある丹八山の頂上に祀られた迦具土社(かぐつちしゃ)で参拝した時だった。
神社に参拝した時、時間に余裕があり、他に参拝者がいない場合は拝殿前で瞑想をすることもある。迦具土社の場合もそうだった。
なので、結果的には3度とも瞑想中に観たことになる。
実はこの体験は他の人もしているのかどうか、話をしたことがない。
もし同じ体験をしたことのある方は、このページに書き込みしていただきたい。
誰でも観るものであることを確認したいからだ。
だから、これ以上、ここでは個人的な勾玉に関する体験の詳しい情報は開示しない。
それはともかく個人的には、ほとんどの縄文人が勾玉を見た体験があったのではないかと考えている。
人工的な光源の存在しなかった古代には現代人には感じ取りにくい、ごくささやかな光を感知する能力が高かったのではないかと推測するからだ。

《伽耶は存在しなかった》
ところで、朝鮮半島で勾玉が出土しているのは、かつて倭人の日本府である任那(みまな)が存在したからだと推測できる。

 任那 MIMANA
美馬郡 MIMAGUN

現在の徳島県中北部に存在する美馬市は旧名を美馬郡といい、「剣山」が存在する。
捏造された伽耶が鉄文化と結びつけて紹介されているように、任那に重要な鉄産地が存在したことが推測され、美馬郡と何らかの関係があったことが考えられるが、それを2世紀~3世紀に存在したとされる徳島県邪馬台国説が補強している。
存在しなかった伽耶は3世紀に始まったとされている。

戦後の日本では朝鮮半島に「伽耶(かや)」と言う国が存在したとするプロパガンダが実行されてきたが、Wikipediaの「伽耶」の項目をみても、「以下、本文上は加羅で統一する。」と修正が進行しつつあるようだ。
最も旧い資料である414年に高句麗が建立した広開土王碑文(こうかいどおうひぶん)には「任那加羅」と表記されており、加羅と任那が同義語であることがわかる。
一方、3世紀から存在したはずの「伽耶」の表記は1644年以降になって編纂された『全唐文』が出版されるまでの1400年以上もの間、どんな情報上にも全く表記が存在しないことが明快になっており、まるで実在の信憑性の無い国家であることがわかる。
一旦、「伽耶」の表記が現れた『三国史記』(朝鮮半島に現存する最古の歴史書)でも後に正しい「加羅」に戻されており、何者かが伽耶が存在したとする捏造作業をした証拠として残されてしまっているありさまなのだ。

もう一つ、倭人が関わった地域以外では勾玉形の物品の出土は見られないことからすると、勾玉が倭人以外観ることの無い形象であり、だから三種の神器の中で最も旧いアイテムとなった可能性が考えられる。
他の二つの神器、八咫鏡(やたのかがみ)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は金属器であり、縄文時代のものではない。
縄文時代から存在したのは唯一、石器である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のみと考えられるのだ。

さて🅑の渦巻き紋だが、これは勾玉というよりは中央に円弧があって、そこから渦巻きが始まっているものとみられる。
これもこれまで見た記憶の無い渦巻きのパターンだ。

最後の🅒の渦巻き紋はこの土器特有の渦巻きと言えるものだ。
中央から巴型に2本の太い線状の渦が始まっているのだが、上に向かって渦巻いた線は1周するうちに土器の地に同化して消滅している。
もう一方の下に向かった渦は1周したあたりから、線がミミズ(環形動物門貧毛綱)のような体節を表現したものとなって伸びている。

上記3種類の異なった渦巻きは等間隔で3面に刻まれているのではなく、間隔は統一されていない。
そして、この土器の制作者は同じ渦巻紋を使用することを意図的に回避している。
紋の形態、紋同士の間隔とも統一を避けているように見える。
不条理な表現は混沌となり、整理した形態の表現よりエネルギーを感じさせる。
この土器は口縁部と頸部に装飾された紋も他の多くの縄文土器と同じく、エネルギーを表現しようとしているように見える。
三種の渦巻き紋の中には勾玉をモチーフとしたものが含まれているわけだが、現段階では、この“勾玉”は“エネルギー”その物を可視化したもので、日本人にしか感得できないものではないかと考えている。

これまで、渦巻紋は水流あるいは龍蛇の表徴と考えてきたのだが、上記3種類の渦巻き紋の中で水流と見ることができるのは🅑のみで、🅒は環形動物門貧毛綱と見られ、龍蛇の一種とみてもいいのかもしれない。
環形動物門貧毛綱紋は渦巻形でないものなら、縄文土器によく見られるモチーフなのだ。

さて、口縁部と頸部の紋を見てみよう。
口縁部と頸部の紋として渦巻き紋の一つである蕨紋(わらびもん)を中心として同心円の波紋が多く入っており、これらは胴部と異なり、全体に“水”を表現したものに思え、この土器は水壷だったのかもしれないとも考えた。
水壷として考えるなら、胴部に🅑🅒の水流と環形動物門貧毛綱を装飾のモチーフを入れたのは納得がいく選択だ。

ところで、頸部には2ヶ所に三角形の2つの角だけ角丸にして1つは尖らせた形態の紋が見られる。

10芋川遺跡縄文土器紋

渦巻き🅐の上部に見られる三角形は内部に刻まれているものが判然としていないのだが、(上記写真左)の頸部に刻まれた三角形は外枠が二重になっており、その内部にはスポーツカーの装飾としてよく見られるサイドの通気孔ルーバー(上記写真右)のスリットを想起するような表現が見られるのだ。
上記写真の三角形は水紋と見られる同心円よりかなり大きく、ゾウリムシなどの水中に見られる原生生物とは思えないものだ。
一体、何なのだろう。

芋川遺跡の北120mあまりを東西に流れる逢妻川(あいづまがわ)を見に向かった。
すると、170mあまり下流に全長100mあまりの一ツ木大橋が架かっていたので、そこに向かい、橋の中央から上流を眺望すると、310mあまり上流に架かっている名鉄名古屋線の逢妻橋梁が見えた。

11逢妻川

上記写真の右手の一ツ木町に芋川遺跡が存在し、左手は今川町だ。
両岸とも護岸はされているが、幅の広い高水敷は背の高い雑草で完全に覆われている。

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刈谷市の縄文遺跡で出土した遺物で、興味を惹かれたものが出土した遺跡は以上となる。
渦巻紋だが、今夏、観に行く予定だった青森県の亀ヶ岡遮光器土偶の着衣にも見られる紋だが、それは水流や龍蛇と結びつくものなのかどうか。
来夏、果たして2度目の青森ツアーはできるのだろうか。
今から夏の来るのが待ち遠しい。

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