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御用地遺跡 土偶 68:方位石か道祖神か

岡崎市くらがり渓谷に祀られた石原町 砥鹿神社・猿飛の岩のレイライン延長上、3.4kmあまりの場所、新城市作手保永(しんしろしつくてやすなが)に貴舩神社(きふねじんじゃ)があるので、向かいました。
直線で3.4kmですが、山中であり、直接繋がった道は無く、一つ飛んで、二つ先の尾根の向こう側の麓にある神社なので、かなり遠回りする事になりました。

●御用地遺跡 土偶

1MAPレイライン貴舩神社

2MAPレイライン貴舩神社

国道301号線から作手保永海老線(県道435号線)に入ると、右手は田畑地、左手は田畑地と山が連なっていた。
435号線沿いの両側と左手の山の麓と中腹に複数の民家が点在していた。
だが、それも301号線から450mあたりまでで、それを過ぎると右手に田畑地はあるものの、人家は途絶えた。
人家が途絶えて400mあまり走ると、道沿いの左手に1対の幟柱を立てる石柱が並んでいる場所に差し掛かった。
見ると、左手に7段ほどの石段があり、石段の上右手に「貴舩神社」と刻まれた社号標。
正面には南南東向きの石造の伊勢鳥居が設けられ、その奥に瓦葺切妻造平入の横に長い民家のような建物があり、境内は杉の巨木に囲まれていた。

1作手保永 貴舩神社杜

社頭脇に愛車を駐めて、石段を上がり、鳥居をくぐると、正面の建物は拝殿に間違いなく、軒下は白壁だが、前面はガラス格子戸で全面が閉ざされていた。

2作手保永 貴舩神社拝殿

拝殿の向かって左手には袋になった小部屋がくっついている。
拝殿の背後は社叢に覆われているが、山がそびえているわけではなく、小山になっているようだ。
拝殿前で参拝したが、祭神は高龗神(タカオカミノカミ)となっている。
作手保永 貴舩神社に関する情報は祭神と住所くらいしか見当たらないのだが、高龗神を祀った神社の中には縄文遺跡跡に祀られた神社が存在する。
奈良県吉野郡に存在する丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみしゃ)だが、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての宮の平遺跡が出土し、立石(たていし)を伴う環状配石遺構が出土し、縄文時代にも祭祀空間が存在していたとみられている。
そして、ここ作手保永でも縄文時代の布路遺跡(ふろいせき/上記MAP内)が出土している。
『遺跡ウォーカーβ』(http://www.isekiwalker.com/iseki/52561/)には以下の情報がある。

布路遺跡
 所在地 愛知県新城市作手保永字布路38-1 (旧、南設楽郡作手村)
遺構概要 包含地。<現況>畑/宅地
遺物概要 縄文土器+弥生土器+石鏃+石匙+石刃

布路遺跡は宮の平遺跡と同様、土偶は出土していないが、作手保永 貴舩神社の西南西720mあまりに位置し、レイラインからは少し外れている。

本殿を見るために拝殿の右手に回ると、瓦葺切妻造平入の、やはり横に長い覆屋が設置されていた。

3作手保永 貴舩神社本殿

高龗神一柱を祀るには巨大過ぎる覆屋であり、他の境内社が合祀されている可能性があるが、情報は無い。
本殿覆屋の裏面は3mほどの高さのコンクリートブロックの垣根で土留めがなされていた。

ところで、覆屋東側の傾斜が始まった場所の杉の古木の根元には大小3つの石を組み合わせたものが祀られていた。

4作手保永 貴舩神社陽石

手前の地面に埋まったように置かれた、上面がすっかり苔に覆われた石の上には湯飲みが置かれており、祀られた石であることが解る。
苔の生えた石を拝石と考えるなら、メインの石は頭頂部が亀頭に似ており、陽石と考えられる。
しかもこの石はおヘソの部分にポッコリとした丸い突き出しがあり、これも実は亀頭を意味するものかもしれない。
そして、陽石と右隣の小さな石を合わせて夫婦石を意味した時代もあったかもしれない。
そして、この2石の間には平らな隙間があり、二つの石はこの隙間が陰部を表す陰石を兼ねたものである可能性もある。
さらに、二つの石の隙間が方位を表す方位石である可能性も考えられる。
現場では2石を組み合わせたものとする発想で観なかったたため、方位を計測していないが、方位石であるとしたら、南北を指したものだと思われるが、方位石としては石が小さ過ぎるかもしれない。
ところで、この石を陽石と考えるなら、塞の神(さえのかみ)として作手村の入り口の三叉路(例えば上記地図内🅐)に置かれていたものである可能性も考えられる。
三河南部では「塞の神」ではなく、「道祖神」という呼び名が使用されているようだが。

本殿覆屋の西側に回ると、この神社最大の杉の巨木が天を突いていた(下記写真2点とヘッダー写真)。

5作手保永 貴舩神社神木

幹の麓には注連縄が巻かれており、重要な神木とされているようだ。

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くらがり渓谷から作手保永 貴舩神社に移動する山道はツーリングコースになっているようで、4月中旬という事で、多くのバイクの集団とすれ違いました。
作手保永 貴舩神社からレイラインを辿って、目的地となる、同じ新城市の柿下遺跡に向かいました。

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