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御用地遺跡 土偶 65:親子のレイライン

本刈谷遺跡(刈谷市)と御用地遺跡(安城市)を結ぶレイラインを辿って、長瀬八幡宮(岡崎市)から矢作川(やはぎがわ)を渡り、五十猛神社(いたけるじんじゃ)に向かいました。

●御用地遺跡 土偶

1MAP大門 五十猛神社/鴨田町 荒神社

2MAP大門 五十猛神社/鴨田町 荒神社

しかし、県道26号線と国道1号線を勘違いしていたことから、現場で五十猛神社を、いくら探しても見当たらず、帰宅して地図作成に使用している、米国のフリー・マップWorld Topographic Mapを観ても、「五十猛神社」の記載は無かった。
それで、次の鴨田町 荒神社に参拝して帰宅したのだが、長瀬八幡宮の境内社、源太夫社の写真を撮り忘れていたことや、鴨田町 荒神社のヘッダーに使用できる写真が見当たらないことから急遽先週末、撮影に向かうことにし、長瀬八幡宮と鴨田町 荒神社の位置をGoogle地図で確認していたところ、五十猛神社が記載されているのを見つけてしまった。
World Topographic Mapの情報から、五十猛神社は廃社になっている可能性があるのかもと思っていたのだ。
Google地図は情報が新しく、「ストリートビュー」で画像認証ができることから、自分が勘違いで五十猛神社を見落としていたことが確認できた。

それで、先週末は長瀬八幡宮→五十猛神社→鴨田町 荒神社の順で巡ったのだが、3ヶ所とも、神社前に愛車を駐めた途端にパラパラ雨が降り出し、境内で足止めを喰う事になった。
この日は午前中雷雨の予報だったのだが、午後1時半まで雨が断続し、晴れたことから、出かけたのだが、岡崎市は名古屋市と違って山岳部が近いことから、天候は変わりやすいようだ。

思い違いにも意味がある可能性はあるので、最初に参拝した順序に従って、まずは鴨田町にある荒神社のことを紹介していく。

南向きの鴨田町 荒神社は周囲を住宅に囲われた中に忘れられたように残っている畑地の中の1画を境内にしていた。
そのために幅2mあまり、長さ30mあまりの表参道は両側を住宅に挟まれて南北に延びており、表通りから鳥居や社殿を確認できず、その存在を知っている地元の人しか参拝にやって来ない神社だった。
いや、「荒神」という、今では御利益の判らない神を祀っていることと、神社の規模から、氏子と神職の方しか出入りしない神社だと思われる。
レイラインにヒットしていなければ、やってくることのなかった神社だ。

周辺の道路は狭く、最初にやってきた時は愛車を近くに駐められなかったのだが、今回は勝手が判っているので、愛車に乗ったまま、表参道を入っていって、境内の端に愛車を駐めた。
ほぼ、その駐めた場所から撮影したのが下記の写真だ。

1鴨田町 荒神社杜

境内は表参道の入り口から、大粒の砂が敷き詰められている。
境内に置かれている人為的なものは石造明神鳥居、手水桶、一対の石灯籠、ブロック塀(瑞垣)に囲われた覆屋。
それが全てだった。
境内の左手と覆屋の裏面は続いている空き地になっており、覆屋の右手の緑色のネット塀と生垣で囲われた部分は畑地、写真から切れているが、境内の右手は住宅になっている。
覆屋のブロック塀と緑色のネット塀の間に通路があるが、どこにも抜けられず、境内と境内を取り囲む空き地全体が袋小路になっている。

覆屋前で参拝したが、これまでの三河で遭遇してきた荒神社と同じく、鴨田町 荒神社に関する情報は現場にもネット上にも見当たらない。
私見だが、これまで三河で遭遇してきた荒神社と同じく、おそらく荒神の下層にはスサノオ、その下層にはアラハバキが祀られているのだと思われる。

格子窓から覆屋内を観ると、総素木造の荒神社が大谷石を組み合わせた基壇上に設置されていた。

2鴨田町 荒神社本殿

周囲には鉄の灯明台や太鼓、雪洞が置かれているが、覆屋内の白壁は灯明の煤で黒く煤けている。

覆屋前の広場の端なのか境内を横切っているのか、自然石が2列に並んでいた。

3鴨田町 荒神社水路跡?

境内の南東の端から撮影したのが、下記の写真だが、水路が設けてあったのではないかと思われるのだ。

4鴨田町 荒神社境内

周辺に残っている水路をチェックしてみると、360mあまり西に南北に柿田川が流れている。
おそらく、この境内の北方に湧き水があって、設けられていた水路が湧き水が干上がったことから敷き詰めた砂利が水路を埋めてしまったものと思われる。

ヘッダー写真は、その水路に並べられた御影石の角に合わせて打ち込まれた地藉調査標だが、この境内でも雨に降られたので、砂が濡れている。
他にも地藉調査標が複数、境内に打ち込まれていたが、どの調査標も境内にある石の角に合わせて打ち込まれているように思えた。

鴨田町 荒神社から大門にある五十猛神社に向かった。
五十猛神社はこの部分では矢作川(やはぎがわ)を渡るために高架になっている県道26号線の脇に南向きに祀られていた。

5大門 五十猛神社覆い屋

鳥居は無く、瓦葺入母屋造平入で、正面に舞良戸(まいらど)が締め立てられた覆屋が寺勾配(てらこうばい)を持った石垣を組んだ基壇上に設置されていた。
基壇の設けられたコンクリートでたたかれた方形の敷地が境内のようだ。
敷地内には石灯籠が1基と、石灯籠の奥に地蔵堂が設置されている。

実は五十猛神社の左手は寺院だと判る山門があるのだが、山門には看板や額は掛かってなく、山門すぐ内側には堂々と洗濯物干し台が設けられていたのと、ツーリングに使用している地図に寺院名の表記が無かったことなどから、廃寺になった寺院だと思って、撮影はしなかったのだが、この記事を書くためにGoogle地図を見たところ、「慈雲寺」という表記がちゃんとあり、真宗大谷派の寺院であることが判った。
ただ、五十猛神社との関係からすると、慈雲寺の前身は密教系の神宮寺であった可能性が高い。
明治期の神仏分離で五十猛神社は山門外に出されたのだろう。

五十猛命を祀った神社の総本社は和歌山県の伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)だが、伊太祁曽神社は中世には新義真言宗の根来寺と深い関係を築いていたとする情報がある。
伊太祁曽神社の祭神は以下となっている。

主祭神…五十猛命(別名:大屋毘古神)
左脇殿…大屋都比賣命 (おおやつひめのみこと。五十猛命の妹神)
右脇殿 …都麻津比賣命 (つまつひめのみこと。五十猛命の妹神)

伊太祁曽神社に祀られた三柱は、いずれもスサノオの御子神であり、『日本書紀』 卷第一の第八段の第五の一書では、3人で各種の樹木を全国に植えたとある。
現在の森の多い日本列島は3人の功績によるものということになるのだが、個人的に気になるのは五十猛命の名前に含まれる「猛」の文字だ。
荒ぶる神スサノオの息子に相応しい名前なのだが、五十猛命には猛々しいエピソードが存在しないのだ。
それでも、偶然とはいえ、同じレイライン上に親子が並んで祀られているのは必然とも言えるのだ。

覆屋前で参拝し、屋内を観ると、葡萄色に染められた五十猛神社の社が祀られていた。

6大門 五十猛神社

社の扉の前には出雲系を意識した大根注連が掛かっている。
五十猛神社の左脇にも社が祀られていたが、社名は不明だ。

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愛知県内限定とはいえ、本刈谷遺跡と御用地遺跡を結ぶレイライン上にわずか3社しか存在しないのではレイライン認定できないかもしれませんが、それでも、毎回珍しい神社に遭遇できるのは確かです。

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