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麻生田町大橋遺跡 土偶A 113:水路脇の百年柿園

記事は豊橋市の石巻山の名を冠した町名、石巻小野田町に戻りますが、その下切田(しもきりた)の2基目の橋〈下記地図内(1)の場所〉に到達しました。

下切田2番目の橋上から上流側を見下ろすと、40mあまり先に下切田1基目の橋が見えている。

橋の上にいる時は、まったく気づかなかったが、その橋は鉄筋造の主桁の厚さが1.2mくらいありそうな、通常の橋とは異なる橋であることが判った。
主桁にはコストが掛かっているが、一方で欄干は一般的なガードレールが流用されている橋だ。

その橋のすぐ下流でカーブしている牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)には分割壁スレスレまで水量があるのに比して、左岸側(上記写真右側)の用水路には水が少ない状態だった。
流れは牟呂幹線水路が速く、用水の水はほとんど流れていない。
上記写真手前では松原幹線水路から分割壁を乗り越えた水が牟呂幹線水路側に落ちている。

上記写真右側が南で丘陵になっているのだが、この丘陵を迂回するために牟呂松原幹線水路は南西に向かっている。

下切田2基目の橋から140m以内に位置する下切田3基目の橋〈上記地図内(2・3)の場所〉に至り、橋上から上流側(下記写真)を眺めると、橋から上流30mあまりの部分だけ用水路だけが広がっているのだが、広がっている部分には完全に土砂が堆積しており、雑草で埋まっていた。

左岸(上記写真右側)には瓦葺の和風の建物があるが、この建物は「百年柿園ベル・ファーム」という100年以上柿を育て続けてきている柿園の一部で、現在は柿のお菓子の開発・販売もしているという。

百年柿園ベル・ファームの歴史は次郎柿産地の歴史と同義であるようだ。
10月・11月が旬の次郎柿は本来、渋柿だという。
『静岡県周智郡誌』によれば、江戸末期の弘化年代に森町村の農家の松本治郎という人が、太田川の河原で柿の幼木を見つけ、これを持ち帰って自宅に植えたのが始まりだという。
明治2年、近所からの出火により、その柿の木が焼失してしまったというが、再び根元から新しい芽が出て、それが成長して甘味豊かな実を結ぶようになったという。

左岸の丘陵部を航空写真で見てみると、丘陵上に広大な柿園が広がっており、「下切田」という地名は、やはり「百年柿園ベル・ファーム」とほとんど同義のようだ。
下切田1基目の橋の主桁が厚かったのは、百年柿園ベル・ファームから出荷するトラックが頻繁に通過するからではないかと推測できる。

ちなみに柿の生産量は豊橋市が日本1位だという。
同県民なのに知らなかった。

一方、牟呂松原幹線水路の下流側(下記写真)を眺めると、90mあまり下流の石巻小野田町上鳥見塚に位置する樋門(ひもん)まで一直線で3本の水路の状況は変わっていない。

この樋門は牟呂松原幹線水路には水門が無く、西140m以内に並行して流れている間川(あいだがわ)に水を落とすための樋門だ。
この部分では牟呂松原幹線水路の左岸(上記写真左側)は丘陵から離れている。

上鳥見塚樋門の下流40m以内に石巻小野田町上切田の60号橋(上記地図内)が存在する。

60号橋上から上流側(下記写真)を眺めると、鳥見塚樋門部分の水路上に電源設備のボックスが2棟建てられているのが見える。

水路内は、牟呂松原幹線水路に変化はなく、用水路の水だけが干上がっている部分がある。
上記写真右側の紺色の建物は一般住宅だ。

60号橋上から下流側(下記写真)を眺めると、水路はかすかに左にカーブしており、行く手に丘陵が立ちはだかっている。

水路内の状況は松原幹線水路の水量が少し減ってきているのと、用水路に干上がった部分が無くなっていることくらいだが、松原幹線水路の水量が減ってきているのは、鳥見塚樋門で間川に水を落としているからだと思われる。

ところで、この部分の牟呂松原幹線水路では60号橋の40mあまり下流に、左岸側から2本のパイプが水路上まで延びており、牟呂幹線水路と松原幹線水路それぞれに水を落としている。
ここまで、牟呂幹線水路を横切るパイプは存在したが、意図した水路内に水を落とす設備は初登場だ。

2本のパイプの先40mあまりに見えているのが、石巻小野田町唐立(からたち)の鳴沢橋だ。

鳴沢橋に移動して橋上から上流側(下記写真)を眺めると、ここにも牟呂松原幹線水路内に手摺が取り付けられていた。

牟呂松原幹線水路内にはそれぞれ、浮子が浮かべられており、手摺とともに水量が多く流れが速いための設備ではないかと思える。
一方、右端の用水路は土砂が堆積し、ほぼ雑草で覆われている。

鳴沢橋の橋上から下流側(下記写真)を眺めると、30mあまり下流に架かる小野田町薮田の62号橋が見えているが、62号橋に接するように、やはり2本のパイプが牟呂幹線水路と松原幹線水路、それぞれに水を落としていた。

水路内の変化は用水部分の土砂の堆積が少なくなっていることくらいだ。

62号橋の橋上からは上流側の眼下にジュラルミン製のパイプが見える(下記写真)が、まだ新しいもので、まったく汚れが無い。

下流側(下記写真)を眺めると、行く手を左岸の丘陵の森が牟呂松原幹線水路に迫っている。

水路内は牟呂幹線水路と用水路に変化はないものの、松原幹線水路の水量が明らかに減っている。
水量が減った原因は、やはり上鳥見塚樋門で間川に水を取られたこと以外に考えられない。

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新城市の豊川に水源を持つ牟呂松原幹線水路は豊川市を通過して豊橋市の柳生川に合流していますが、豊川市に入った部分から、基本的に牟呂松原幹線水路に架かった橋にはネームプレートが付けられていました。その橋名はGoogleMapのストリートビューで充分読み取れると判断したので、一々記録していませんでしたが、いざ牟呂松原幹線水路の記事を書き始めると、ストリートビュー画像の解像度が低くて、読み取ることができないことが判明しました。その原因は2019年ころから、ストリートビューの画像解像度が引き下げられたことにありました。なので、特別、理由があって撮影したネームプレート以外は、60号橋以前の橋名は不明で、この記事の途中まで基本的に橋名を書き込むことができていませんでした。同じ理由で幹線道路に表示されている大きな道路標識の文字も、ストリートビューでは読み取りにくくなっていて、GoogleMapは小生のツーリングには不便な状況になっています。

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