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麻生田町大橋遺跡 土偶A 111:ショケラ在ったよ!

豊橋市の石巻山頂下に位置する石巻神社上社を降り、社頭を通っている県道379号線の道路脇に駐めた愛車に戻り、石巻山登山口脇にある駐車場まで下りました。前回雨中に下った時には、ほとんど見かけなかった、路上の苔は、登った時と同じようにそのまま残っていました。前回、雨中に下った時に、なぜ、苔が姿を消していたのかは、現在も謎のままです。

石巻山登山口脇にある駐車場の片隅に、4基の石像物を納めた覆屋、石碑、常夜灯を納めたアルミサッシの囲いはあった。
前回やって来た時には雨中で囲いの外側からしか撮影できなかった、4基の石像物と石碑は、前回撮影した写真で扉らしきものがあることが認識できたので、今回は前回同様、駐車場に愛車を駐めて、囲いに設置された扉らしきものが開くのか確認した。
案の定、アルミサッシの扉には錠は掛かっていなかったので、囲いの中に入って、さっそく覆屋を見に行ったのだが、その時、駐車場には複数の人がいたので、囲いの中に入っていったのが、何者なのかという注目を浴びてしまった。

今回は快晴で情報量が多く、前回とはまったく状況が変化した。
まず、覆屋内右端の石祠は、前回はおそらく徳川家康を祀った東照宮ではないかと考えたのだが、確認できなかったので、写真には写っていたが、特に触れなかった。

だが、前回は暗くて見えなかったその石祠内に石仏が納められていることが判った。

神像ではなく石仏と判断したのは、この像の頭頂に饅頭(まんじゅう)のような宝髻(ほうけい)が乗っていたからだ。

宝髻は菩薩(ぼさつ)を示す髪型なのだが、この石仏の波打つ袖口の表現と頭巾を被っていることから、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)ではないかと判断した。
一般的には観音様と呼ばれているが、「観音」という用語はサンスクリット語から翻訳した言葉としては不完全な用語で、正確には「観世音」と言う。
この石祠と観世音菩薩像は有り物を組み合わせたもので、正式な組み合わせではない。

観世音菩薩像の隣は役行者像で、情報は前回取り上げたのと同じだが、

足元に置かれている賽銭箱が乗せてあるのが、石像の靴であることは直前に立ったことで気づいた。

珍しい石像物なので、賽銭箱を一時的に横に退けて撮影させていただいたが、これを衆目の中、コソコソやれば、賽銭ドロと疑われてもしかたのない所業なのだが、観たいんだから仕方ないのだ。

これをきっかけに衆目の中、覆屋内の4基の石像物の賽銭箱全部にいつも用意している5円玉を入れさせていただいた。
それはさておき、この靴は役行者とは関係の無いものだ。
役行者の履物は1本歯か2本歯の下駄と決まっている。
例外はあると思うが、日本の仏像は靴は履かない。
なぜなら、仏像が祀られるようになった飛鳥時代から、江戸時代末期まで、日本人は靴を履く文化は無かったからだ。
この石像の靴はシナ地域の神、つまり道教系の神と組み合わせてあったものと推測した。

役行者像の左隣は六壁(ろくへき:6本の腕を持つ)の青面金剛(しょうめんこんごう)を祀った庚申塔(こうしんとう)だ。

前回、雨降りで暗く、石像にコントラストが無く、遠方から見たため、一番下の左手に持っているショケラ(上記『106:雨の石巻山』で紹介)は「削り取られて、痕跡が残っているだけ」と紹介したのだが、光のあるこの日に目の前で確認したところ、完全な像が残っていることが判った。

ただ、髪の毛をつかんでブラ下げているのは判るのだが、その下はてるてる坊主のような表現で、腕と脚の表現が不明快で平坦だったため、削り取られているように見えただけだった。
いずれにせよ、不明瞭な浮き彫りではある。

庚申塔の左隣は直前で観ても、神仏像であること以外は不明だった。

覆屋の正面北側に建てられた石碑は囲いの近くなので、前回も直前で撮影できたのだが、雨で碑面にコントラストがまったく無かったため、「菩薩らしき名前が刻まれた仏塔」としか紹介できなかったのだが、今回は「馬頭観世音菩薩」石碑であることが読み取れた。

前回は石碑前の拝石にコインがいくつか乗っていたのだが、全部回収されていた。

(この項続く)

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庚申塔自体が愛知県では珍しいものなのに、さらに貴重なショケラまで残されていたというのは、庚申塔マニアにとっては垂涎ものです。

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