見出し画像

佐目05-歴史探索 永源寺佐目の伝承

永源寺の佐目は、永源寺ダムの下に沈んでいる。今回、佐目氏の事を調べるにあたり、その時の資料や写真を見たが、同じ名を持つ村に生まれた者として、住民の方のお気持ちを思うと心が痛む。

離れられても佐目区として自治会があるという事で了承を頂き、永源寺の「佐目文書」の写しを東近江市教育員会のご協力の元、撮影させて頂いた。
まだ、調べている途中なので、どうしようかと迷ったが、ネットで検索しても出て来ないので、私なんぞより、もっとちゃんと調べて頂ける方が現れてくる事を願って、現在 わかる範囲まで公表させて頂く事とした。

永源寺のルーツ佐目の皆様、お世話になった東近江市教育員会、永源寺図書館の皆様、ありがとうございました。

同じ「佐目」という変わった名前を持つ村が、多賀と永源寺という隣り合った地域にあるのは、木地師だけでなく、古代の鉄の氏族が関係しているとわかった。

01-佐目村を往古は、かねの村と申し候

往古は金の村と申すIMG_2403

 近江国神崎郡佐目村を往古は、かねの村と申し候
 佐目子谷をかねの谷と申し候

一、むかし人皇の御代始の頃、いつくともなし奥山より牛一匹来り、佐目村の男女をなやまし 耕作をあらし申すに付き、人々防いでもかなわず、迷惑いたし候

此の牛のありさまつらは牛にて 角あり候て 足は馬のことくにてかけ走りはやく 尾の先につるぎあって総身の毛は金針の如くにて岩をくずし、枯木を堀りたおし前後へちかづき心きようこれなく 

然る所に 左に一眼有りて鰐口(わにぐち)の童子来り、右(上記)の牛を追拂い在所へよせつけ申さず 人々不思議に存じ 此の童子の帰る方を見候へば かねの谷へ参りゆきかた見え申さず いよいよ不審に存じ 御金明神の神楽あげ湯立を致し候へば 俄かに社壇震動して 左り目の童子白針装束にてあらわれ出て給えば、薬師の十二神 童子の左右に座し給ふ その時 童子宣を承り

「是、鐘明神なり むかし かねの村にはらみたる牛を殺せしうらみに依て右の牛来り かね村をたやし申すべしと仕に付、氏子をかこわんため このころふせぎたたかふなり 三日の中に件の牛を滅しかね村は安穏たるべし」

と御託宣あらたなり その時男女老若いよいよ神楽の庭(床?)に拝し参り
然る所に かの牛夜中に来り 両眼は日月の如くに光り 二つの角を振立、
尾の先の劔はやいばの如くにて谷峯をかけりはやき事飛鳥の如くなり、

かかる所に御童子御あらわれあって右の牛をおいまわし 愛智川原の石を
取り給ひ御口よりほのふを出し この石に吹きかけ牛に投げ付け給へば
石は則ち鉄火となって 雨あられとなり、かかる牛は次第によわり、高山の
原にひれふし こふべをたれて死にけり、

餘り不思議に存じ奉り 時の守護へ申し上げ候へども 前代未聞に思召、則ち 御鐘明神御建立に成され候それよりして、かねの谷を左り目の人の子と書いて佐目子谷と申し候

かね村を佐目村と号し 高山のひらみを牛の額と名付、此山の尾通りも 馬の牛の尾と書きて ばのうしの尾と申せしを田舎?(でんしゃ)の申
あやまりにて はのちの尾と申し来り候 

その頃は牛かひたいに佐目村の在家これあり候しも 件(くだん)の牛来り人馬を殺し申に付 今の佐目村へ引取、在家を立て末(すえ)繁盛の村と成る事は偏(ひとえ)に御鐘明神の御神力ありがたしとも 中々言語におよばず候
 偏に御鐘明神の御神力 言語に及ばずに候

『ふる里の写真集』大字佐目 に載っている (牛ヶ額縁起 神社保存文献)とほぼ同じであるが、抜けている部分がこの文書には書いてある。わりと新しい方の文書ではないかと。

02-薬師の十二神 童子の左右に座し給ふ

『ふる里の写真集』には、上記の下に「附記」として
● 永祚元年(989) 頃、左妻村 or 金子村(金の村)から「佐目」に改称
とあり、神社の創設により発生した村だとある。
以下の時系列。

812年 筥崎八幡宮より勧請して、若宮八幡宮を建立
970年 深山霊峰尾金平より塔尾金大明神勧請
(※天禄元年庚午と『御金塔尾之縁起』にある。元禄は誤記かと) 
976年 御金塔尾之縁起の「初書記」
983年 寂昭上人渡唐為 の文書
989年 左妻村、金子村(金の村)から、佐目に改称
990年 若宮八幡神社北尾鉦社(尾金神社)創社 
     空也上人光勝(903 - 972)所持の鉦を祀る

と、いう具合で、『ふる里の写真集』には、若宮八幡宮が産土神で、尾金明神は守護神だとある。

つまり、佐目氏は 元々多賀の「佐目」という所領を西暦350年前後に与えられ、村の名から「佐目氏」となり、989年(永祚元年)に永源寺の「金の村」を治める事になり、村の名を自身の「佐目」という名に変えたという事なのだろう。

という事は、左に一眼有りて鰐口(わにぐち)の童子 の伝承は、経緯から言って、元は多賀の佐目の伝承だったのではないか。渡来系の新しい製鉄技術が本格的に入ってくる前であるが、製鉄は行われていた。

更に「薬師の十二神」とあり、驚いた。佐目の十二相神社の「十二」は、この十二だったのではないか。

薬師というのは、薬師如来。佐目の十二相神社の御祭伸は、明治の神仏分離で現在は少彦名命(少名毘古那神・すくなひこなのみこと)と榾神様
当時は神仏習合であり、神仏分離で薬師如来=少彦名命 となったのだろう。「薬師の十二神」は十二神将といい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神であり、それぞれに本地仏があり、観音菩薩、地蔵菩薩、阿弥陀如来等が対応している。

「童子の左右に座し給ふ」とあるが、十二相神社のご神体の並びを見ると、榾神様を守るように、観音菩薩、地蔵菩薩が左右に配置されている。多賀の佐目では、榾神様がその童子のポジョンなのだ。

多賀の佐目では、まだ、村の関係文書を探してもいないので、どの本地仏を祀っていたのかは確定できないが、1390年に十二相神社勧請したという岐阜南濃町志津の十二相神社には、天神七代 地神五代の12神とある。元々は、十二相権現社だった。どちらにしても、元々は武神・仏様で、どの神様なのかというのは、各々違うか、そもそも神様を相対させていたかはわからないが、現在、十二相神社では「十二神鏡御台座」が新たに奉納されている。

永源寺の佐目『ふる里の写真集』では、明治7年 若宮八幡宮横の薬師如来・不動明王をお祀りしていた天台宗極楽寺が廃寺になり、その跡地が分校だとある。ご本尊は大龍寺に遷座されたそうだ。

若宮八幡宮地図

今は、ダムに沈みないが、若宮八幡宮と極楽寺は、神仏習合時の長きにわたり、セットだったのだ。佐目の十二相神社も、今は拝殿と呼んではいるが、建築様式は寺である。ここに、何かしらの「仏様」があったはずである。
十二相神社には、明治政府にさからって、もしくは、廃仏毀釈の風潮がなくなってからかもしれないが、神様と仏様が一緒に祀られている。
永源寺の佐目のように、村の寺にご本尊が移されたという事はないのだろうか。

後から紹介するが、とても長い「御金塔尾之縁起」が、永源寺の佐目にはあり、失明したインドの王子を救った薬師如来の話がこってり出てくる。

縁起というのは、寺や神社の建替え費用の捻出の為に、どれ位、すごいかというのを訴える必要があり、話を盛るのが通常で、永源寺の佐目の伝承も「佐目氏」が関与していた事は間違いなく、この縁起には、多賀の佐目の伝承も入り混じっていると思われる。

佐目氏は、戦国時代に殺され絶えてしまったが、山間部にいたおかげで政権が変わろうとも、古墳時代から1200年もの間、細々とでも、出自がよい氏族の誇りを持って、生き延びたのではと想像する。多賀・永源寺の佐目に、もっと鉄が出れば、きっと力を持てただろうにとも思う。

●君ヶ畑の『木地師の沿革』に、
「当時(明応年間1495-1501)佐目殿は神崎郡と犬上郡に庄官領ありしかば今は村名に其の名を留む。」とあり、

●『木地師の習俗』橋本鉄男著 昭和43年 に
大津に残っていた<木地屋の神軸>に「於 淡海国多賀郷佐目殿書」と麻地に墨書きされていたそうで、本格的に永源寺で氏子狩りがはじまった頃は、既に佐目氏は殺されているので、つまりは佐目氏がいなくなったからこそかもしれないけれど、佐目殿が永源寺のみならず、多賀側の木地屋にも関わっていた事を示す貴重な情報だ。

兎にも角にも、1505年まで、「佐目氏」は多賀と永源寺の佐目の荘官をしていたという事なので、佐目氏の信仰が双方に影響した事は、ほぼ間違いないだろう。

1505年というのは貴重な発見で、明智光秀佐目出身説で、光秀の2~3代前が佐目にやってきた時期を推測するキーポイントになる。元々、十兵衛屋敷には佐目氏の館があったかもしれない。更には、古墳なんかが出てきたら、最高に面白くなるのにと、妄想がとまらない。

永源寺の佐目村は、この近辺では唯一稲作が行われていた村だそうで、元々、少人数だった鉄が出る村(山)に佐目氏は入り、なんとか製鉄を行い、東大寺など奈良大寺、石山寺の造営の為に動き、同時に稲作が行える村に開拓していき、治めるようになったのではないか。

尾金平より塔尾金大明神勧請の時期の誤記

「深山霊峰尾金平より塔尾金大明神勧請」の年代が、『御金塔尾之縁起』(後に添付)と、『ふる里の写真集』にある若宮八幡神社の「社歴」の看板の写真とで違う。

永源寺佐目ふる里の写真社歴訂正

『御金塔尾之縁起』は、
天禄元年 庚午(かのえうま)   970年
『社歴』は
元禄元庚 とある。元禄元年の事であれば、1688年になる。
既に、尾金神社は存在している。元庚という干支もない。
天と元は、似ているので誤記かと思われる。

03-空也上人のたたき鉦の伝承は、両方の佐目にある

この『社歴』には、尾金神社の祭伸は金山姫命とあり、空也上人の鉦(かね、打楽器)を若宮八幡宮の北方に秘蔵を建て遷し、旱魃の時にこの鉦を打ち鳴らしたら必ず雨が降ると伝えられている。

実は、多賀坊人の子孫である三木家にあった『淡海地志』(1690 年前後・原田蔵六著) に、多賀の所に、佐目の空也上人の伝承が載っていた。
「一、さめ村 われがね空也ノたたきがね也雨乞には是を取出必雨降」
とあった。多賀の佐目は、昭和初期まで「雨乞い踊り」があり、旱魃の時は御池岳まで雨乞いに行っていた。「鉦」という金属と雨乞い。どちらも「佐目氏」が絡んでいるとも言える。

佐目空也

尾金神社の御祭神は、金山姫命とあり、もちろん製鉄の神様ではあるが、明治の神仏分離で変えざるを得なかったのか、昔 からなしかはわからないが、古文書を読むと「塔尾金大明神」をお祀りしていた事がわかる。

04-御金咒文 寂昭上人渡唐為 祈念被御釋者也

読めない文字もあるし、結構 間違っている箇所もあると思われるが引き続き、『佐目文書』の文字起こしをしてみた。御金大明神の服装が豪華になっており、よくわからないが(きっと、当時の民もそうだったと思う)、そんなすごい神様ならば、大切にしなくてはと思ってしまう書きっぷりである。

永観983年20_2393-

謹上参供再拝 敬白
抑南無塔王御金大明神と申は 当代天竺よりも天下せ給ふなり
如何にも其日の御装束?膚には小金の直垂(したたれ)御身に着し奉り
五徳の鎧にて甲には小金の閻浮檀金(えんぶだんこん)をなされ
左の御手には?黍七拳卯(忝かたじけなくも拳印)申印し結はせ給ふ 
右の御手には百八煩?拙(煩悩)の数珠玉を爪縿(まとい)
足にも小金九万粒の沓し召し
知恵福徳末繁盛に守るへしとの御誓願なり 

当代は薬師如来?質は九万八千の山の龍王とならせ給ふなり
七変化の神にてましませば
 ・山の神とならせ給ふなり
 ・大権現にならせ給ふなり
 ・普賢菩薩とならせ給うなり
 ・八幡宮とならせ給ふなり
 ・大天狗にならせ給ふなり
 ・蛇身體(体)とならせ給ふ
 ・福の神とならせ給ふ

夜の驚き昼(畫)の御碍(さわ)りなく 息災延命安寧穏末繁昌冨貴の御世と
守るべしとの御誓願なり
 御金咒文 寂昭上人渡唐為 祈念被御釋者也
江州神崎郡柿御園佐目村神主
 永観元年(九八三年)癸未三月十三日

※因みに寂昭上人(962頃生)が唐に渡ったのは1003年
『宇治拾遺物語』に出てくる人物だが、出家したのは988年なので、これも年代が合わないが、そこに目くじらを立てるのは意味がないと、そろそろ気が付いてきたので先に進めるが(笑) 、昔の人の必死さと、名CMプロデューサーぶりには、頭が下がる。

閻浮檀金(えんぶだんこん)というのは、閻浮提(えんぶだい・インド)の閻浮樹の下にあるという金塊。または、閻浮樹の林を流れる川の底に産する砂金。また、広く、良質の金をいう。とある。孫悟空は、ここで生まれたらしい。

絵を描く才能があれば、左目一つの童子の絵を描いみたいと思える。

05-とても長い「御金塔尾之縁起」

さて、いやになられるといけないので、先に短い古文書からご紹介したが、これが本命である。古文を習った記憶さえ、蘇らす事が出来ないので、歯抜けだらけにはなるが、がんばったので、ひとまず、UPする。
出来れば どなたか現代語訳し、間違いを正して頂けるとありがたい。

イメージでしか内容がとらえられないが、たぶん

・金峰塔尾に、金銀等の金属がでて探しに行った人が行方不明になったり、バチが当たったりした事。

・鰐口の由来。鰐は、現代のワニではなくサメの事で、鮫のような口。

・今昔物語を拝借し、天竺( インド) 鉄輪王子阿育大王(あそかおう、アショーカ王)の王子が義母の策略で両目を失ったが、それを治したのが「薬師如来」で、そのすごい神仏が関係しているのだ、この村の神様は!という説明

・何人かで山に行ったが、大変な目に合った所を御金大明神が助けてくれた。しかし、一人だけ行方不明になり、その人を探しに行った一人の人に、行方不明者の悲惨な姿を見せ、ルールを守らないとこうなるぞと言い、お前が先達になる事、もし、自分が来れない時は六親(等)、それも来れない時は村の者・・・と、ルールを定め、それを守らないと罰があたると、この金塔尾の利権を押さえた。

と、いう感じかなと。□は、読めず。赤色は全く自信がない文字です。

御金塔尾之縁起P1

「※」「太字」は仮、未確定。□は不明
わかった部分を随時、直していきます。

御金塔尾之縁起(※おかねとうおのえんぎ)
抑桉(案)金峰塔尾之来由矣夫【抑(そもそも)金峰塔尾の来由を按(あん)ずるに】神代時忽(こつ)尓而出家一人来
之佐目村之社伝此 五月中云預檀金
置御簾(すだれ)前行方不知 没蹝跡(もっしょうせき) 
没蹝跡: 跡形をとどめない】也 村人老若男女応声
出来 雖然【→然(しか)りと雖(いへど)も】一ヶ半ヶ毎人親尋只有已(巳)
老若男女相云此是什物村老云 我聴東海有魚其
名曰鰐也 此魚者四海之人極悪重罪深者必赴海赴
河時此魚必食罪業深者刹那滅罪業也 故令将金銀
銅鉄鋳也 此鰐魚之形
【金銀銅鉄を將(も)ちて此の鰐魚之(の)形を鋳(い)せしむ。】
以於佛神前懺悔以滅却
罪業也 以是鰐魚之口也 故于世以之【故(ゆえ)に世に之を以
(もち)て】 曰鰐口也

御金塔尾之縁起P2

御金塔尾縁起P3

画面では見にくいので以下PDFです。

まとめたいが、小椋村の荘官であった事はわかったが、永源寺の佐目村との関係がいつまであったかが、まだわからないので 保留とする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?